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ドラキュラだった父のこと

私の家庭は父がアル中の引き篭もりで母が働いていた。精神的な病気も抱えてたと思う。
私が中学の頃、離婚、その後に父は失踪した。

小学5年生くらいの時には自分の家の状態が普通じゃないと薄々理解していた。父は働くどころか自室からほとんど出てこないのだ。

幼い頃、父は自称ドラキュラだった。ドラキュラは太陽の光で死んでしまう。なので薄暗い自分の部屋から出れないという理屈だ。
私はそんなことを真顔で言う父をかっこいいと思った。友達の父親がドラキュラだなんて聞いたことがない。特別な存在。

なんとなくなんとなく、世の中のことがわかるにつれて父が都合の良い嘘をついていたことに気づいた。
いや、ある意味では私たち家族の生き血を啜るドラキュラだったのかもしれない…けど。

そして軽蔑した。父は特別ではなくただ逃げてる人だと。
我が子が冷たい視線を自分にぶつけてることに気づいた父は更に自室から出れなくなったのかもしれない…と今更思う。

なんだかんだとあって離婚、10年の失踪、末期癌で発見。しばらくして他界。

親の離婚はつらかった。
さみしいとか悲しいとかではなく父の存在を憎みすぎて感情の整理ができなかった。
真っ当に父親としての使命を果たして良い親子関係を築けていたなら少し違かったかもしれない。

『お父さんはドラキュラだからね〜』と正当化してた父を情けなく思う。私が何かピンチの時には絶対助けに来ると豪語していた。
きっとそれは精一杯の父なりの愛情表現だったと思う。

理解はできるのだけど許せない。20年近く何もしないで引き篭もっていたのだ。その間、母はひとりで働き、家事をし、全てをこなしていた。
父は気まぐれで家族の前に姿をあらわすと物を壊したり母を殴ったりしていた。

死ぬ少し前。父の体調と機嫌がいい時に外食したいと誘われた。もう余命一年程度と聞かされていたので私は全く乗り気ではなかったが『最後の思い出』をプレゼントするつもりで一緒に出かけた。
母と父と私の夕食だ。
そこで父は若い頃自分がどんなにモテたか、母がどんなに自分に惚れていたかを自慢し始めた。
母は呆れていたようだった。
私はこの人はずっと夢の中で生きているのかもしれないと思った。
その食事中の会話がひどすぎて途中トイレで隠れて泣いた。
憎くて悔しい。

父が死んだ時、私は骨を拾わないと、葬式に出たくないと駄々をこねた。
気持ちはわかるけど、ね、と妹に諭されて結局骨を拾ったのだけど。
自分の父親の骨すら許せなかった。
父に関わる全てが憎い。
私の器はおちょこサイズだ。
もう並々と憎しみが注がれてしまっているのにどうやって追加分を受け止めればいいのか。

もし、両親が離婚しない世界線があったらきっと私は父を殺していた。想像するとゾッとする。殺人を犯していた未来と隣り合わせだったのではないか、と。
夜中に酒を飲んで自室から出て暴言を吐いて暴れ、家族を力で制しようとしてた父はただの害でしかなかった。この日々が続くなら私が終わらせるのが正義じゃないかと思う夜が何度もあった。

末期癌でやつれた父と再会した時、ざまぁみろと思った。そして彼の側には誰もいなかった。

今でも許せない。許すということは難しい。
死んでもなお、私は許せないでいる。
もう父は居ないのに。私は憎しみを手放せないでいる。

私のこれからの人生を父に捧げる気はさらさらない。時間が少しずつ癒してくれている。
それでも、時折気持ちが暴走する。
父を許すということは
あの日々の暴力を許すということのような気がして全身の血液が沸騰するような気分になる。

救いなのは今の自分の横にいる人がとても優しいということだ。
彼の優しさに導かれて私も穏やかな人でありたい。

正しい暴力なんてこの世にない。

(かなり前の下書きを投稿してみました
疲れてたのかな〜 
何か父を思い出すことがあったんでしょうね…いろんな家庭、親子関係があるよね うちはこんな感じだったよ〜という話です…暗いですが 笑
今家庭のことで悩んでる方はひとりで何かを決断したりしないで頼れる人に相談してね
相手を殺すのも自分を殺すのも許されないので…)

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