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言葉で表現するということについて

10年以上も前に別のブログで書いていた記事を、偶々読んだ。

いろんな気持ちや想いを言葉にできたらいいと
そう思い始めたのは、確か小学生の頃だったと思う。

頬の横を吹き抜ける風の匂いや温度
同じようで昨日とは違う空の色
毎日ほんの少し色が変化していく草花

それらを、どうにか言葉で繋いでおきたかったのだ。

そして言葉で表現する、ということについて
私の中に羨望と嫉妬が確実に存在した場面を
今でも鮮明に思い出すことができる。

それは幼馴染の書いた一片の詩。

私が小学3年か2年のとき、一つ年下の彼女の教室の外。
廊下には、そのクラスの児童が書いた詩が掲示してあった。

詳細は忘れたが、そこには
「どうして煙は上に向かっていくんだろう。下には流れないんだろう。」
というような内容の詩があった。

それを読んだときに、
「あぁ、私にはその観点がなかったな」と痛烈に悔しく思ったことを、
昨日のことのように思い出す。

煙は上に向かっていくのが当然で、
それに疑問なんて持ったことがなかった…

そこに目を付けたことに、羨ましさと悔しさと妬ましさがあった。

それから、いろんな本を読み、多くの人の考えに触れ、
言葉で表現するということを、その都度考えたり、挑戦してみたりしたが、常にそのときの衝撃が頭をよぎる。

そして、だからこそ
「私も」と
「表現したい」と
思う気持ちが常に心の中にあるようになった。


わたしの中の強い動機というものは、
衝撃、そして羨ましさから来ているのかもしれないな
と、これを読み返して思った。

もちろん「楽しい」からくる動機もあるだろうけれど、
強烈にその「きっかけ」が残っているものは
強い衝撃と、羨望から来ている気がする。

幼馴染の書いた詩を読んだときの風景を
今も覚えているくらいに、それは強烈な記憶として
わたしの中に刻まれた。

そして
ちょっと変わった視点で物事を捉えることが
自分の中の表現の価値になっていた部分があった。

その価値に絡めとられ惑わされ、そして悩み
今は以前よりは「面白い」を
単純に楽しめるようになってきている気がする。

そして「面白い」を、いろんな人と共有したくて
わたしは言葉を紡ぐ。


最初にこの記事を書いた後、2013年にも
わたしはこの記事をもとにそのときの想いを綴っていた。
(つまり、今回は2回目の自分の記事の引用となる)

そして時は流れ。

私は今、言葉で記したことについて
「ああそうだ、それを伝えたかったのだ」
「それを表現したかったのだ」
という想いを、誰かと共有したいのだ。

ということに思い当たる。

そして、あの時の気持ちがある限り、
これからも言葉をそっと紡いでいくのだろうと思う。


なんだ、7年経った今も同じ気持ちなんだ。
わたしの本質はここにあるような気がして
クスリとなった。










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