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言の葉が1枚。

あの人の言葉の1つ1つが私を揺るがした。

あの場所に住んでいたとき、私はもっと自由だった。しっかり自己を確立できていた。人の目を気にして歩くことを知らなかった。あの日から、一瞬、一瞬、過ぎていくごとに私は焦る。まだ何者にも、何事も結果として、形として、表すことが出来ていない。あの人は、そのままでいいというけれど、その言葉は私にとっては、酷いほどにもどかしくて、悲しくて、辛いことだったりして。少しでも、その人と出会った頃の自分よりも距離を置きたいのに、私はずっと立ち止まって、後ろを振り返る。それが、正しいのか、正しくないのか、それさえ分からないまま。過去を振り返る度に、どんどん修正されていくことが怖い。それを糧に進んでいかなければならないのに。進めないまま、自分を見つめることさえ放棄している自分がもどかしい。何か、拾い上げるべき感情を置いてきてしまったのだろうか。時間をかけて思い返し思い出に浸ることは、大切だと認識しつつ、今の私には無価値な気がして。行動できるはずで、思考できるはずで。真剣に物事に向き合おうとすれば出来るはずで。ああ、でも方向性が分からないからそれが困難になっていく。道を逸れたからこそ、見た景色が今日までに幾重も重なっていて。きっと、今まで見た景色を蓄積出来ている今日が一番幸せなはずで。
本当はどうしたいのか知っている。とうの昔に知っているはずなのにね。
私は私のままでしか変われない、そう誰かが私に言った。でも、その言葉を信じられるほど私は強くなかった。ずっと、私でしかない。今がどうしようもなく弱くても、これから強くなっていったとしても。日常を経過していくこと自体が変化を与えているから、変化の只中に私はいるけれど。移り行く景色のように、木の葉がざわめき、新緑の中を駆け巡る黒雲があって、雨ばかりが降り続く梅雨の日に貫くような雷の光が輝いていて。心にはいつも音がある。

言葉は魔法のようだと思った、3年前。
私はもっと、言葉を丁重に扱う人でありたいと思う。
もっと、自分の描く景色を鮮明に表せる人になりたいと思う。
今は、苦しいほどに、昔のように、言葉を紡ぐことができなくなってしまった。あの夜に幾度流れた涙は、出てこなくなってしまった言葉の数だった。
それでも、あの場で、あのときに、聞き届けてくれた人がいて、肯定してくれる誰かがいて、私は、本当にうれしかった。

決断して進んできたからこそ、今、決断することが進むことが億劫になってしまうのは分かる。でも、進みたい。進んだ先に見える景色をみたい、違和感に感じている何かを糧に、進みたい。そう思えてる。思う心がある。だから、あの人が言うように、そのままでいいんだと思う。岐路亡羊な只中でも、私は私だから。
1つ1つの心躍る方へ、正直なスタンスを持っているだけで、心が救われていくなら、それでもいいんだと思う。
その先で得る葛藤や焦燥感や不安も1つの景色だからね。
いいんだよ、ずっと行動してきたんだから。

進んで、もっと多くの言の葉を拾い上げよう。

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