小説「春枕」第二章〜郭公(ほととぎす)鳴くや五月のあやめ草(2)〜
(第二章つづき)
「この桜の木は、輪っかのような木目が2つ、向かい合っています。まるで、2つの魂が引きあっているように見えませんか。
このような材木を『出会い杢(もく)』といって、一般的に客間に使われたりします。素敵なご縁がありますように、という願いを込めて。
小百合さんと初恋の人が出会ったのも、きっと何かのご縁。結ばれても結ばれなくても、2人が恋に落ちたというその事実は決して消えません。この出会い杢のように、2つの魂にその記憶が刻まれている。わたしはそう思います。
それに、誰かを真剣に想ったことがあるからこそ、後悔がうまれるのではないでしょうか。後悔のない人生なんて、深みがなくてつまらないです。」
春花さんはそう言ってわたしに、山査子(さんざし)のお茶を淹れてくれた。
「小百合さんのたった一つの恋の想い出が苦いものではなく、美しい青春の一ページとなりますように…。
小百合さん、わたしに話してくださってありがとうございます。春枕では、お客さまのどんな思いも、大切に受け止めます。」
このお店に来てお茶を飲むとホッとするのは、春花さんの真心がこもったおもてなしのおかげだ。
「こちらこそありがとう。今日あなたと話せてよかったわ。ずっと秘めていた想いを吐き出せて、スッキリしたわ」
わたしは胸がすっと軽くなったところで、店を後にした。
🌸
この話には、後日談がある。
なんと齢70にして、わたしに恋人ができた。
さらに驚くべきことは、わたしよりひとまわりも年下の彼だ。
「はじめて彼に出会った時ね、ビビビッときたのよ。勇気を出したくなる人に、この歳で出会ったの。そう、出会ってしまったの。
初恋のあの人のこと?もちろん今でも大好きよ。あの人は最初で最後の恋だもの。ずっとずっと永遠に、忘れないわ。
今の彼は、わたしに愛を教えてくれた人。
どちらの男性も、わたしにとってはかけがえのない存在よ。
でもね、彼には初恋のあの人のことはナイショよ。墓場まで持っていくわ。秘密がない女なんてつまらないでしょう」
今日は彼からもらった口紅を塗っているので、思わず饒舌になる。年甲斐もなく真っ赤な色だが、わたしのお気に入りだ。
「春枕にいらっしゃるお客さまは、みなさん、この桜の木が呼んでくれたのだとわたしは思っています。
だからわたしはいつも、この桜に祈っているのです。『どうか、春枕にいらっしゃるすべてのお客さまが良き出会いに恵まれますように。そして、幸せでありますように』って。
だからきっと小百合さんが彼と出会ったのは、この桜が結んでくれたご縁ですよ」
春花さんはそう言って、心からの笑顔で祝福してくれた。
「桜さん、ありがとう」
わたしはそっと、桜の木を撫でた。
(第二章終わり)
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