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小説「春枕」第一章〜春ごとに花の盛りはありなめど(1)〜

春。
百花繚乱の美しい季節のはじまり。 

「あ、さくら」

東京•銀座駅の出口に立ったわたし、二条美咲の目の前に、ひとひらの花びらが舞い降りてきた。

思わず花びらを手を伸ばして受け止めると、それはなんと発光している。
光る花なんて、見たことがない。

あっけにとられていると、花びらはわたしの手のひらを離れ、きらきら輝きながら風に流されていった。

不思議なことに、「こっちへ来て」とまるでわたしを誘うような声がする。
もしかして、これはさくらの声…?

「待って!」
わたしは慌ててさくらを追いかけたのだった。


🌸


不思議なさくらの花びらは、つづらおりの階段を登った上にあるお店の、白い扉の前にはらりと落ちた。
「ここまで来たら、勇気を出すしかないわね」

思い切って扉を開けると、仄暗いお店の中から優しい声がした。

「いらっしゃいませ」

楚々とした美しい女性が、ゆらゆら揺れる蝋燭の灯りに照らされて微笑んでいる。

「ふだんは招待制で知り合いしか来ないお店なんですけれど、お客さまはどうやら桜の精に呼ばれたようですね」と言った。 

「たしかに桜の花びらを追いかけてやってきましたが、このお店のどちらに桜の木があるのかしら?」

「こちらですよ、お客さまの目の前にあるこちらの机は、奈良県吉野の山桜の木で出来ているのです。この木は本当に気が強くて、一筋縄ではいかないの。だから人を選ぶのですが、お客さまのことはほうっておけなかったんでしょうね」

そう言って、戸惑う私に彼女は微笑んだ。

「さあ、おかけ下さい。わたしはこの桜の木の使いです。名前は、春花と申します。ご縁があって出会った大切なお客さま。さっそくお茶をお出ししますね」


すすめられるままに白い椅子に腰を下ろす。銀座の街の真ん中とは思えないほど静か。ゆらめく蝋燭の炎を見つめていたら、春花さんが野草で入れたお茶を出してくれた。


「うちは薬草茶でお客様をおもてなしするお店なんですよ。今日は、ドクダミとスギナをブレンドしてみました。どうぞ」


ドクダミもスギナも、厄介な雑草だ。その上ドクダミは、独特のにおいがする。しかし、その2つが合わさったお茶は、意外と苦味はない。そして、森のような香りがする。なんて、爽やかな風味。


わたしはひと息ついた。ほんとうに久しぶりに、こんな風に深く呼吸した気がする。まるで、森の中にいるようだ。桜の木の机をそうっと撫でてみると、そのぬくもりが伝わってくる。なんだか気持ちを吐き出したくなって、思わず言ってしまう。


「実は、大好きだった母が亡くなってしまって…。もういっそのこと、後を追って死んでしまいたいと、何度も思うんです。

 こんなに辛い思いをするのなら、何にも感じなくなってしまえればいいのに…心なんてなくなってしまえばいいのに…。」


春花さんはじっと黙って、桜の木の机を愛おしそうに撫でて言った。

「この桜は、樹齢100年か120年といわれています。それこそ、良いことも目をそらしたくなることも見続けてきたのでしょうね。

 桜を見上げる人びとが、笑ったり泣いたりしながら懸命に生きて、そして死んでゆくさまをじっと見守ってきた。桜の木からしたらちっぽけに思えるような、わたしたち人間の生涯を、まるで愛おしむように。

 桜の花にできることは、春が来たら美しい花を咲かせることだけ。ほんのわずかでも憂いを忘れて、桜の美しさに魅入られるひと時があれば、人は生きてゆける。どんなに辛いことがあっても、美しいものを見て『美しい』と思えるうちは大丈夫だと思える。それが、人間が持つ命のパワーなのでしょう。そのことをきっと、桜は知っている。

 こうして机の形に姿を変えて花を咲かせることがなくなっても、お客さまのことを励ましたくて、桜の精があらわれたのだと思いますよ。」

ふとわたしの脳裏に、一本の桜の木の姿が浮かんできた。

(つづく)

※この物語は、フィクションです。

さくら咲く

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