小説「春枕」第五章〜恋しさはおなじ心にあらずとも(2)〜
(つづき)
「恋しさはおなじ心にあらずとも今宵の月を君みざらめや、ね。
わたしがあなたを恋しく想うほど、あなたはわたしのことは想っていないだろう。それでも今夜、あなたはわたしと同じ月を見ているだろうか。
歌の意味はざっとこんな感じ。この歌に込められている気持ち、瑞稀さんならわかるんじゃないかしら。」
「わたしは和歌って難しいからよくわからないけど…でも、なんとなくわかる気がします。
たとえ片想いでも、好きな人がこの同じ空の下に生きていて、同じ時間に同じ月を見ていると思うと…ちょっぴり嬉しいです。
本当なら、2人並んで一緒に見たいなあと思うから、切ないけれど。」
「そうよね。この歌を読むたびにわたしは、誰かが誰かを大切に想う気持ちって、とても美しいなって思うの。
この歌を詠んだ人は、相手に自分の気持ちを押し付けていないのも素敵よね。そっと自分の中で恋心を味わって、その切なさも嬉しさもすべてを楽しんでいるように思えるの。
瑞稀さんももう少し、ゆっくり恋心を温めてからでも遅くはないんじゃないかしら。
関係を深める前に焦ったら、うまくいくものもうまくいかなくなってしまうわよ」
春花さんはそう言って、わたしに桂花というお茶を淹れてくれた。
わたしはほうっとひと息ついて、考えてみる。
たしかにわたしは彼のことをまだ何も知らない。そして、彼はもっとわたしのことを知らないはず。だって、最近やっと連絡先を交換したばかりだもの。ラインのやりとりといえば、テレビの実況くらい。ここで告白してもうまくいかないかも。
「たしかにわたし、焦っていたかもしれません。いや、パニックになってた。
わたしは彼のことが好き。だから早く、彼もわたしのことを好きになってほしい!って必死になってました。やっと連絡先交換したばっかりなのに。
もう少し彼と仲良くなってみます」
春花さんはニッコリ笑って言った。
「そうそう。彼ともっと仲良くなったら、もう一度いらっしゃい。そうしたら、桜の木も力を貸してくれるかもしれないわ。」
春枕のお店を後にしたわたしは、まるで魔法のおまじないのようにあの和歌をつぶやいた。
🌸
告白のメッセージを送るのも、いつもみたいにテレビの実況をするのもやめにして、少しだけ彼に踏み込んだラインを送ってみた。
「ねえ、最近ガッコーで百人一首習ったよね。一番好きな歌を選んで感想書く宿題を出されたけど、何にした?」
ラインはすぐに返ってきた。
「しのぶれど色にいでにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで、にしたよ。
隠していても恋心は表に出てしまう。ひとから誰かに好きな人でもいるの?と問われるほどに、って歌。
佐々木は何の歌にした?」
「え、わたしも同じ歌にした。
ていうか佐藤くん、好きな人いるの?」
「ナイショ。そっちこそ好きな人いるの?」
「ナイショだよーん」
なんだ、佐藤くん、好きな人いるのか。
ナイショってことは絶対にいるパターンだ。
佐藤くんの好きな人がわたしかどうかわからないから、勝手に失恋したみたいで、思わず目に涙が滲んでくる。
一番月が綺麗だという今夜、佐藤くんもわたしのように、その想い人さんに告白のメッセージをしようと迷っていたかもしれない。
わたしたちは同じ空の下に生きていて、同じように誰かを想い、同じ歌を好きだと感じていた。
そのことがちょっぴり嬉しくて、切ない。
昔の人も、現代に生きるわたしとまったく同じ気持ちだったんだ。
わたしと同じように恋をして、大切な誰かを想って生きていた。
そのことが、わたしを少し安心させてくれた。
早くも失恋気分だったけれど、これからもっともっと彼と色んな思いを共有していこう。
わたしはそう決心して、頬に流れた涙をぬぐい、鏡に向かって微笑んでみせた。
だってわたしたちは、まだまだこれから始まったばかりなのだから。
(第五章おわり)
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