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まぼろしの五色不動【3】目白不動のにぎわい

(1)存在しなかった「改撰江戸志」の謎

 目黒と並んで古くから知られていたのが目白不動である。
 目白不動についての基本データを調べるのに、まずは『角川日本地名大辞典 13 東京都』から調べてみることにした。

目白不動 神田川北岸に沿う。地名の由来は、昔この地で白い名馬を産したからという説(南向茶話)や、寛永年間頃将軍家光が鷹狩の折、目黒に対して目白と呼ぶべしと命じたという説(江戸名所・備考)、また目白不動の本尊は奇特の本尊であり、参詣人が押し合い、寄り集う寺であることからめじろ不動と名付けたという説(江戸名所記)、江戸開府の折、慈眼大師(天海)が台命によって、江戸鎮護のため、四方に不動の像を造立し、目を赤・黒・青・白の色にしたことにより地名となったとの説(改撰江戸志)などがある。この説が発展し、江戸の五色不動となり、もと目白不動のあった新長谷寺のあたりは目白台の名で呼ばれていた。江戸期には関口村の小名。

 ここに挙げられている出典はすべて調べてみた。『南向茶話』『江戸名所図会』『江戸名所記』は資料がある。ところが、『改撰江戸志』だけはどうしてもみつからない。この説が正しければ、江戸時代の「四色不動」説(黄色がない)が裏付けられることになるのだが……。

 いくら調べても出てこないので、東京都立中央図書館のリファレンスに問い合わせてみることにした。それによると、「改撰江戸志」という書物の内容は、現在、確認できないようなのである。
 似たようなタイトルで、「新編江戸志」「改正新編江戸志」というものはある。そして、昭和7年の『今昔』という雑誌に、川村善という人が「新編江戸志と改撰江戸志」ならびに「改撰江戸志とその著者考」という記事を書いているということがわかった。

 中央図書館1階の雑誌コーナーに所蔵されているその記事を読んでみた。すると、「改撰江戸志」という書籍は一応存在したと思われるが、原本は残っておらず、他の地誌に引用される形でその痕跡が残っているだけのようだ。また、「改撰江戸志」と「新編江戸志」は、内容的にまったく別の本らしいということもわかった。
 つまり、現在、「改撰江戸志」そのものの内容を確認することはできない。というわけで、やはり「天海が五色不動(または四色不動)を創建した」という話は、ここでも裏付けがとれなかったのである。

(2)空海、湯殿山で不動明王に会う

 目黒不動では天台宗の慈覚大師・円仁が深く関わっていた。その師である伝教大師・最澄と並び称されるのが、高野山金剛峯寺で真言宗の開祖、弘法大師・空海である。
 空海と最澄は同じ年、延暦二十三年(804年)に中国にわたった。そして、空海は最澄より一年長く、大同元年(806年)に帰国したのである。

 それから二十年ほど経った天長年間(824~834年)のこと……と伝説には説かれている。ちょうど淳和天皇の時代だ。空海は出羽国(今の山形県)庄内平野にやってきた。そのとき、最上川の支流である赤川の上流から、光る葉が流れてきたのである。拾いあげてみると、その葉の裏には梵字が書かれていた。それは、大日如来を表わす五文字の真言であった。
 空海は、この赤川の上流に聖地があると確信して、源流へとさかのぼっていった。赤川は両岸が切り立った深い谷の底にあり、ときには滝も越えていかなければならない。やがて、川が二股に分かれている合流点にやってきた。そこで、大きな岩の上で思案していると、川面に梵字が浮かび上がったのだ。そこで、梵字の見えた方をさかのぼっていって、ついに湯殿山の霊場にたどりついたのである。
 この川は後に梵字川と名付けられた。

 さて、空海が湯殿山の裏の荷沢河で修行しているとき、一つの情景を見た。大日如来が現われたかと思うと、たちまちのうちに不動明王の姿に変じ、滝の下に現われたのである。そして、空海に告げた。
「この地は、諸仏内証秘密の浄土であるから、有為の穢れた火をきらう。それゆえ、凡夫が登山することが難しい。今、汝に無漏の上火を与えよう」
 そう言うやいなや、持っていた鋭い剣で左のひじを切り落としたのだ。そこからは霊火がさかんに燃えだして、仏身を包み込んだ。
 この情景を見た空海は、その姿を二体の像に刻んだのである。そして、一体は荒沢の滝に安置し、もう一体は自ら持っていたという。これを荒沢鑽火(あらさわきりひ)の不動明王といい、身の丈8寸の尊像であった。
 それからしばらくの間、その像がどこをどう伝えられたかはわからない。空白の期間がある。

 数百年の後、この像を守っていたのは、下野国足利(栃木県足利市)に住んでいた僧であった。名前はわからない。この僧は何やら夢を見て、この不動明王像を持って、武蔵国豊嶋郡関口(東京都文京区関口)へとやってきたのである。どういう夢を見たかはよくわからない。一方、関口の住人である松村氏も夢を見たという。そこで、相談してこの不動明王像を足利からこちらに移すことにした。
 関口にやってくる途中、足利の僧は嵐にあった。そして、着ていた袈裟が吹き飛ばされてどこに行ったかわからなくなっていた。その袈裟が、関口のとあるエノキにかかっていたのである。
「これは、この不動尊とゆかりのある地であって、ここに安置せよというお告げに違いない」
 その土地は、領主・渡辺石見守のものであった。足利の僧と関口の松村氏はこの話を告げ、石見守はその屋敷の地を寄付して草庵を建てたのである。
 これが目白不動尊の境内となり、例のエノキは「袈裟掛榎」と名付けられた。

 さて、話は少し飛ぶ。高野山の真言宗には、一つの分派があった。これを「新義派」という。その本拠地は、紀州の根来寺であった。それは戦国時代には根来衆として一大武装勢力となっていた。しかし、織田信長、豊臣秀吉に攻められ、滅ぼされてしまう。
 その根来衆の代表者の一人、専誉は、秀吉の弟・豊臣秀長に保護された。そして、大和の長谷寺を再興し、これを新義派の総本山とするのである。その後、この長谷寺を中心とする一派は真言宗豊山派と呼ばれ、その後、勢力を拡大することとなった。

 この大和長谷寺からやって来たのが、妙音院小池坊能化秀算(秀山)僧正と呼ばれる人物である。例の弘法大師空海が湯殿山で刻み、足利の僧侶の手を経てやってきた不動明王像は、当時、不動堂に収められていたが、この秀算が再興することになる。これが元和四年(1618年)のことであった。
 そのころ、2代将軍秀忠の命令によって、ここに堂塔・坊舎が建立されることとなる。さらに、大和国長谷寺の本尊と同木・同作の十一面観音の像を移してきて、その名も「東豊山 浄竜院 新長谷寺」と改称したのであった。まさに、大和の本家・長谷寺に匹敵する、東の新しい長谷寺という位置づけである。

※この項、村山修一著『修験の世界』(人文書院)ならびに鶴岡タウンねっと 鶴岡の案内人 赤川の話し (赤川の由来?)ページを大いに参考にした。ありがとうございます。

(3)目白という地名の由来は?

 ここで気になるのが「目白」という地名の由来である。これがよくわからない。 『江戸名所記』(1662年)には、こんな川柳が書かれている。

をしあひてまいりのつどふ寺なれバ めじろ不動と名づけそめけん
(押し合ってお参りの集まる寺だから めじろ不動と名付けたのかな)

 目白押しだから目白不動……単なるダジャレである。というわけでこれは置いておこう。ただ、この時代にすでに目白不動と呼ばれていたことだけは間違いない。
 十八世紀に入ると、こんな説が定着してくる。

「寛永のころ、御鷹狩りのときに3代将軍家光が本尊を拝み、「城南の目黒に対して目白と呼ぶべし」との将軍の命令があったことから名付けたという」

 この説は『江戸砂子』『江府名勝志』『江戸名所図絵』に載っている説である。少なくとも江戸時代後期には定着していたようだ。だが、これはあまりにもできすぎた説だ。そもそも、もし家光命名であれば、一番時代の近い『江戸名所記』にそのことが書かれていないのはおかしい。家光以降しばらくはその説がまったく載っていないところに不安がある。将軍の命名であればそれを由緒に書いても当然ではないかと思うのだが……。また、「家光の鷹狩り」という目黒と同じパターンであるというのもできすぎのような気がする。

 そこで参考にしたいのが、『南向茶話』という本の追考部分である。これは1765年に書かれたもので、江戸時代後期のものであるが、この本は小日向地域限定の極めてローカルな由緒記なのである。地元での伝承が最もよく伝わっているのではないだろうか。そこには、こう書かれている。

○目白の称についてのある説。ここの下にある上水の橋を駒形橋という。今、水神の宮といって氷川明神を祀るところに、むかしは駒塚という塚があった。言い伝えによれば、むかしここから白尾の名馬が出たということで、その塚があったという。あるいは右大将(信長?)のときのことであるともいう。そのためにここを目白と称したとか。

 つまり、「白い尾の馬」で「目白」説である。目黒の地名の由来でも有力な説として「馬」が由緒になっていたから、この説に軍配を上げたい。ただ、文献が少ないのが痛い。
 ちなみに、水神の宮は今も神田川のほとりにひっそりと残っている。

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 水神社。ボロボロのお宮が残っている。

(4)目白不動は天海の「敵」陣営だった

 目白不動の来歴を見ていると、湯殿山と切っても切れない関係にあることがわかる。しかし、それは「五色不動=天海」説にとっては致命的な関係なのだ。なぜなら、湯殿山は天海の「敵」だからである。
 湯殿山は、月山・羽黒山とともに出羽三山の一つで、修験道を中心とした山岳信仰の場であった。現在の湯殿山は出羽三山の奥の院として位置づけられているが、この出羽三山にも紆余曲折があった。

 湯殿山の経歴については、村山修一著『修験の世界』(人文書院)に詳しい。まず、その発端についてはこう書かれている。

 さて湯殿山の開創については別当寺である真言四か寺で、むかし淳和天皇の時代、天長年間(九世紀初)弘法大師が諸国行脚の際、庄内平野に来て赤川の上流から大日如来の五字の真言が流れてくるのを見、その源流をたずねて湯殿山の霊場にたどりつき開発し、川はそれから梵字川と名づけられたとしている。平安時代は羽黒とは別個の信仰の山であり、とくに大日寺では応永二年(一三九五)道智和尚が開いたと伝えている。

 しかし、その後、湯殿山は出羽三山の一つとしての信仰を集めることになった。その出羽三山も、江戸時代に入ってからまた分裂することになったのである。

近世最も勢力のあった羽黒山は寛永十六年(一六三九)以来、天台に属し、岩根沢口の別当坊日月寺と肘折口の別当坊阿吽院を支配し、月山の祭祀権を握り、湯殿山側は大井沢口の別当坊大日寺、本道寺口の別当坊本道寺が真言宗高野派、大網・七五三掛の別当坊注連寺が真言宗豊山派に分れ、注連寺・大日坊は表口別当、本道寺・大日寺は裏口別当と称した。

 つまり、これはちょうど将軍家光の時代のことであるが、
  ・天台宗……羽黒山、月山
  ・真言宗……湯殿山(高野派+豊山派)
というように、出羽三山の中でも宗派の違いが生まれていたのである。

 そのきっかけは、江戸幕府による宗教統制であった。少し長くなるが、同書から引用すると、

 徳川幕府は宗教統制の上から天下の修験道を本山派(天台系)当山派(真言系)に分ち、羽黒山の支配下にあった東日本の修験者も大峯熊野を本山と仰ぐものが多くなった。そのため、羽黒山勢力の衰退を危惧した宥誉は三山体制の強化、ことに湯殿山に対する支配力の引締をはかり、寛永十六年(一六三九)幕府に対し、湯殿山の四か寺(大日坊、注道寺、大日寺・本道寺)の行場支配を止め、羽黒山直属にするよう願い出た。これに関連して宥誉は徳川家康に信任厚い天台宗の天海に会い、その勢力を背景に羽黒山を天台宗に転宗させ、統率力を高めようとし、寛永十八年(一六四一)転宗とともに東叡山(日光輪王寺)の末寺に入り、天海の弟子の建前から天宥と改めた。また江戸を中心に関東地方の羽黒派修験の結束を固める為、十人の役僧(十老僧または江戸行人)を置くことを願い出て許され、これに伴い各地に錫杖頭を任じ、末派修験の統制・保護に当らせた。さらに羽黒山に東照宮を勧請しち旨申入れ、天海の斡旋で正保二年(一六四五)に実現したが、湯殿山の件については簡単に落着しなかった。湯殿山の四か寺は真言宗に留ることが認められたが、その代り月山と羽黒山の間の行者の錫杖の音頭取り、行者の賽銭領納が湯殿山側の先達には出来なくされるなどその確執は永く尾をひいた。

 天海僧正の名前が出てきた。しかも、湯殿山は天台宗・天海の配下に入らず、抵抗し続けて真言宗に留まり続けた「敵対者」だったのである。
 その湯殿山に由来する不動尊をまつる真言宗豊山派の目白不動・新長谷寺。「五色不動がセットとして天海僧正によって作られた」という説では、この目白不動の存在自体が矛盾してしまうのだった。

(5)見晴しのいい夜景スポット目白不動

 では、江戸時代のタウンガイドに戻って、目白不動のにぎわいぶりがどのように紹介されているか、見ていくことにしよう。

 『江戸名所記』では、参詣する人々が目白押しという情景がこのように書かれている。

「ほんとうに奇特の本尊なので、人はみなあがめ、貴賤がそろって歩みを運ぶ。
  押し合って 参りの集う寺なれば めじろ不動と名付けそめけん
  (押し合ってお参り集う寺なので めじろ不動と名づけたのかな)」

 『江戸雀』には「たぐいなき仏体であるから、秘仏として開帳されることはない。本体は御厨子の前に立たれていて、この明王を目白の不動と号する」とある。また、こんな発句で締めくくられている。

お不動の利剣はしものつるぎかな

 幕末の『江戸名所図会』になると、目白不動が風光明媚な地として描かれている。眺めのいい場所ということだ。

「大将軍大猷公(家光)が目白の号を賜い、元禄の始めには桂昌一位尼公(綱吉の母)の帰依が深く、諸堂に修理を加え、一丈余の地蔵尊などを安置された。この地の麓には堰口の流れがあり、水流が淙々として日夜絶えることがない。早稲田の村落・高田の森林を望み、風光の地である。境内には貸食亭が多く、いずれも崖の上にある」

 そして、天保九年(1838年)の『東都歳事記』には、七月二十六日の「二十六夜待」に目白不動に人々が訪れたと書かれている。また、十一月の雪見にもいい場所だという。

七月
 二十六日 ○二十六夜待(高いところに登ったり、海・川の辺、酒楼などで月の出を待つ。左に記した地は特に人々が集まることが多く、宵から賑わう)。
 芝高輪。品川。(この両所を今夜盛観の第一とする。江府(=江戸)の身分の高いのも低いのも、前々から約束しておいて、品川・高輪の海亭に宴をもうけ、歌舞吹弾の行事を催すので、都下の歌妓・幇間・女伶などが群をなしてこの地に集う。また、船をうかべて飲宴するものも少なくなく、弦歌は水上でも陸でもやかましい)。築地海手。深川洲崎。湯島天満宮境内。飯田町九段坂。日暮里諏訪の社辺。目白不動尊境内(西南に向かって月を看るには不便なのだが、この辺の人たちは集まる)。

十一月
  景 物
 看雪 ○隅田川堤。三囲。長命寺の辺。真崎。真土山。上野(山内すべて雪景よし)。不忍の池。湯島台。神田社地。お茶の水土手。日暮里諏訪社辺(別当浄光寺を雪見でらという)。道灌山。飛鳥山。王子辺。目白不動境内。牛天神社地。赤坂溜池。愛宕山上(眺望もっともよし)。八景坂(俗誤りて、やげん坂といふ。大井と荒藺の間なり。この地元より八景あり。佳景の地なり)。吉原。

 まさに風光明媚で、食事のできるところもあり、雪や月を見るのにふさわしい「おすすめスポット」といったところだろうか。
 また、目黒不動でもそうだが、江戸時代初期には霊地・聖地として描かれていたものが、時代を下るにつれて観光地として紹介されるようになっていくのも興味深いものである。

(6)目白不動・新長谷寺の跡地を歩く

 さて、この風光明媚な観光地として描かれた目白不動・新長谷寺であるが、江戸時代にあった場所から今は移転してしまっている。そこで、かつて目白不動のあった旧地を訪れてみよう。

 わかりやすいのは、地下鉄有楽町線江戸川橋駅から出るコースである。1a出口から出ると、首都高速5号池袋線と、そこから分かれる早稲田出口へ至る曇った緑色の高架が頭の上を覆っている。出口から出たところに江戸川橋がかかっているので、神田川を渡っていこう。

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 江戸川橋のたもとにある地図。西が上になっている。目白不動の旧地も見える。

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 江戸川橋を渡ると江戸川公園入口。そのすぐ右手の細い道へ入っていこう。

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 これが目白坂。区の解説板によると、「西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した」とある。

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 坂の下から、浄土宗宝国山大泉寺、曹洞宗関口山永泉寺、浄土宗法樹山養国寺、正八幡神社が坂の北側に並ぶ。これは、江戸切絵図にも載っている由緒ある寺社である。

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 八幡神社境内から南を見る。もうすぐ目白坂も終わり、その右手の方に新長谷寺があった。彼方には早稲田の建物がよく見え、風光明媚と言われたのもよくわかる。

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 目白坂の終わり。坂が右手に折れているが、その奥あたりが旧目白不動・新長谷寺の境内のあったところだ。

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 坂の上から反対に撮ってみる。画面中央あたりが旧目白不動の敷地になる。
「かつては「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている」と文京区の解説にある。

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 当時のおもかげを求めて、小学校の手前から神田川に向かって降りていくことにした。

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 目白台地と神田川の谷をへだてる崖を降りていく途中。見晴しがいい。

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 一度神田川を渡って、一休橋から上を見上げてみた。ちょうど正面あたりにかつての新長谷寺があったのだ。

(7)椿山荘に新長谷寺のおもかげを見た

 さて、神田川沿いに少し西に歩いていくと、椿山荘というところがある。かつての上総久留里藩黒田豊前守の下屋敷のあった場所を、明治の元勲・山県有朋が購入、さらに藤田平太郎男爵が買い取った。戦災で焼けてしまったが、藤田興業が庭園を再興したものである。今は庭園とホテル、結婚式場などの場所になっているが、庭園は自由に散策できる。門のところにいた案内の好々爺が「写真を撮っていってもいいですよ」と誘ってくれたので、何となく入ってみることにした。

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 少し歩いていくと、奇妙にも、往年の新長谷寺もこんな感じだったのだろうか、という感覚を覚えた。

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 茶店がある。新長谷寺の周辺にも茶店があった。

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 早稲田方面を見下ろす角度で。新長谷寺の境内もこんな感じだっただろうか。

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 さらに三重の塔も。新長谷寺に塔はなかったが、何となくその雰囲気が感じ取れるような気がする。

 この椿山荘の隣には、かつて松尾芭蕉が住んでいた関口芭蕉庵がある。

(8)いまの目白不動・金乗院へ行こう

 このように、目白不動は「かつてあった場所」には存在しない。というのも、東京大空襲でお堂は焼失し、廃寺となってしまったからである。
 移転先は、この関口から少し西に移ったところ、豊島区高田の金乗院というお寺である。ここもかつての新長谷寺と同じ真言宗豊山派に属するので、同じ系統ということで吸収合併することになったのだろう。

 今の目白不動のある金乗院には何度か行ったのだが、わかりやすいのは西側から向かうルートだ。
 JRならば目白駅から東へ、あるいは高田馬場駅から少し北に上がって、神田川・新目白通り沿いにやはり東方向へと向かう。そして、都電荒川線(いわゆるチンチン電車)の「学習院下」駅を目指そう。
 目白から歩けば皇族も学ぶことで知られるハイソな学校・学習院のキャンパスの横を歩くことになる。高田馬場は早稲田の学生が多い活気あふれる町だ。
 そして、都電荒川線が池袋から南下してきて、東の早稲田に90度に曲がる角の近くに学習院下駅がある。

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 この学習院下駅の上りホーム・下りホームの間の踏切をまっすぐ東へ歩いていくと、じきに左手に白壁の向こう側の金乗院が見えてくる。

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 本堂の正面の門からすぐに中に入りたくなるが、角を曲がって東側の門の方に回り込もう。そこには案内板や古い石像などが並んでいる。

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 門の左前には「長せ寺」と書かれた古い碑が建っている。

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 ここは金乗院、だが「東豊山新長谷寺」と明記された碑――つまり旧・目白不動のあった新長谷寺のなごりがこんなところに残されていた。大和の本家・長谷寺は真言宗豊山(ぶざん)派の総本山で、豊山長谷寺というのが正式名称だ(→長谷寺の由来)。旧・目白不動の「東豊山新長谷寺」とは、まさに「東の長谷寺」という名称なのである。

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 さて、門の右前には石仏があり、土台には「目白」と書かれている。炎を背景に剣を持つ姿は不動明王。これ自体が目白不動尊像というわけではないが、目白の不動であることは間違いない。

 これがどれくらい古いものかと思って、裏に回ってみてびっくりした。そこにはこんな銘が記されていた。

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「天保三壬辰年九月吉日 新長谷寺 宥辨造立之 石工源七」

 なんとこれは一八三二年、幕末近くに作られた不動像だったのである。

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 さて、本物の目白不動は境内に入って右手のコンクリート建ての上に安置されている。遠目に青い体の不動像が見えたが、これがその目白不動像なのか、それともその奥に本体があるのかはわからなかった。

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 最後に裏手の墓地に登ると、早稲田方面がよく見わたせた。写真の右下に見える瓦屋根が金乗院本堂である。

(9)目白不動年表

 目白不動についての記述としては、近年のものであるが、以下の資料も参考になる。

『小石川区史』
目白不動(新長谷寺) 真言宗 関口 起立元和四年
 秀算僧正 除地一七九二坪 元和四年以前不動堂ありたり。

『文京区史』
新長谷寺 関口駒井町 創立不詳
 山手三十三所、目白不動、地蔵、現在退転
 目白不動も、縁起では、野州足利に住む廻国修行者(湯殿山系の行者か)が奉持していた不動であり、たまたまこの地に霊感があり、このあたりの住民松村某と図って、不動を安置して一宇を建てたのが、そもそもの始まりであった。

 元和四年以前に不動堂があったこと、それから「廻国修行者」というキーワードが浮かび上がってくる(このキーワードは目赤不動でも重要なものとなる)。
 ということで、目白不動関係の年表をまとめておこう。

【平安時代・弘法大師空海】
・大同元年(806)空海、唐から帰国。その後、出羽国湯殿山(山形県)の荒沢川で修行中、大日如来が姿を現わし、不動明王に変じた。剣で左のひじを切ると、霊火が燃え出て全身に満ちた。空海はその像を二体模刻した。一体は荒沢の滝に安置し、一体は自ら所有していた。

【足利の廻国修行者】
・年代不詳 野州足利(栃木県)に住む廻国修行者がこの不動を所有していた。夢によって武蔵国豊嶋郡関口に至った。出かけるときに嵐で失った袈裟が、この山の榎の枝にかかっていたので、本尊と縁のある土地であるとわかった。一方、関口の住人・松村氏も夢を見ていた。そこでその地の地主・渡辺石見守に乞うて藩邸の地を寄付され、草庵を建てた。榎は袈裟掛榎と呼ぶ。

【江戸時代:秀算による新長谷寺再興と秀忠】
・元和四年(1618)大和の長谷寺の妙音院小池坊能化秀算(秀山)僧正が再興。それ以前は不動堂があった。
・このころ 将軍秀忠の命により堂塔・坊舎建立。
・このころ 大和国長谷寺の本尊と同木・同作の十一面観音の像を移す。新長谷寺と改称。

【江戸時代:徳川家光】
・寛永 家光公が鷹狩りのときに本尊を拝し、「城南の目黒に対して目白と呼ぶべし」という鈞命(将軍命令)があった。(ただしこの説は江戸時代後期になって初めてあらわれる)

【江戸時代:桂昌院】
・元禄 桂昌院(綱吉の生母)の帰依が深く、諸堂に修理が加えられる。

【戦後:金乗院へ移動】
・昭和20年(1945)5月、戦災で堂が焼失、新長谷寺は廃寺に。本尊を金乗院に移す。

(初出:2005年4月10日~5月11日)


➡ まぼろしの五色不動【4】赤目の目赤不動
⇦ まぼろしの五色不動【2】五色最古の目黒不動を歩く

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