見出し画像

まぼろしの五色不動【4】赤目の目赤不動

(1)修験道の祖・役小角

 奈良盆地の西側は、南北に走る山脈によって大阪と区切られている。
 大きな山でいえば、北から順に、宝山寺(聖天さん)のある生駒山、毘沙門天をまつる朝護孫子寺の信貴山はタイガースファンの聖地でもある。そして大和川を挟んで、南に大津皇子ゆかりの二上山、楠木正成も戦った金剛山、その南に葛城山がある。そこから先は吉野山地(紀伊山地)につながっていく。

 この葛城山のふもとに、賀茂という一族がいた。その本流ではなく、分家筋で、本家に仕える立場の「賀茂役君(かものえのきみ)」という一家が今回の裏の主役となる。葛上郡茅原村――現在の奈良県御所市茅原付近と思われるが、そこで小角(おづぬ)という子供が生まれた。生まれ年にも諸説あって定めがたいが、一番確実なのは「不詳」。ただ、それでは面白くないので、『元亨釈書』などに書かれている舒明天皇六年(634年)ということにしておこう。聖徳太子が亡くなってから12年後のことである。

 『続日本紀』文武天皇三年(699年)の条には、このような記事がある。
――役小角を伊豆の島に流した。もともと小角は葛城山に住み、呪術が優れているとされていた。従五位下・韓国連広足が小角を師としたが、その後、離反して「妖惑の術を用いている」と讒訴した。そこで流罪にしたのである。世間の伝えるところでは、小角は鬼神を使って、水を汲ませ、薪をとらせることができた。もし鬼神が命令に従わないときは、呪文で縛ったという。

 さらに小角伝説はさらに発展していく。平安初期の仏教説話集『日本霊異記』上巻には、少々仏教色が強いが、このように語られている。

  孔雀王の呪法を修めて不思議な験力を得、
  現世で仙人になって天を飛んだ話 第二十八

 役の優婆塞(うばそく、在家の修行者)は、賀茂の役の公、今の高賀茂朝臣の出身である。大和国葛上郡茅原の村の人であった。生まれながらにして知識があり、博学で一番だった。三宝を信じて修行していた。五色の雲に乗って、虚空を飛び回り、仙人の宮を訪れて、何億年も続く庭で遊び、花に覆われた庭園で横になり、心身を養う気を取り入れたいといつも願っていた。そのため、年を取って四十歳余りになってもまだ巌窟に住んでいた。葛の衣を着、松の葉を食べ、清水の泉を浴び、欲界の垢をすすぎ、孔雀の呪法を修め、奇異なる験術を示すことができるようになった。鬼神を駆使して、自由に扱えた。
 多くの鬼神を呼び集めて、
「大和国の金峰山と葛城山の間に橋をわたして通せ」
と命じた。すると神々はみな嫌がった。藤原の宮の文武天皇の時代なのだが、葛城山の一言主の大神が人に憑依して語った。
「役の優婆塞がはかりごとをして、天皇を倒そうとしている」
 そこで天皇は勅令を出して使いを派遣して捕らえようとしたが、験力によってたやすく捕らえられないため、その母を捕らえた。優婆塞は母を逃すために出てきて捕らえられた。そこで伊豆の島に流した。
 伊豆の島では、海上にいれば、あたかも地上を走るかのようであった。高い山の頂上にいれば、鳳凰のように空を飛んだ。昼は天皇の命令に従って島にこもっていた。夜は駿河の富士山の峰に行って修行した。しかし、もう罰もこれくらいでいいだろうと思って都に戻ろうとしてまた罰を受けることとなり、剣で斬られるところをなんとか逃れ、富士山に登った。
 伊豆の島に流されてから二、三年の苦しい日々がすぎていった。このとき、大赦があって、大宝元年(701年)正月に都の近くに帰ることを許された。そして、仙人となって天に飛んでいった。

 この役小角(役行者)は、修験道の祖と呼ばれるようになる。小角にまつわる伝説は日本各地にあるが、その一つが、三重県名張市に伝えられるものだ。
 伊賀国には黄滝または阿弥陀滝と呼ばれる滝があった。小角がこの滝で修行をしていると、不動明王が赤い目の牛に乗って現われたのである。
 そこで、ここは「赤目」と名付けられた。また、大小とりまぜて非常に滝が多く、阿弥陀の四十八願になぞらえて「四十八滝」と呼ぶようになった。これが、今、観光地となっている「赤目四十八滝」の名前の由来である。
 後、赤目不動を安置する黄滝寺が創建され、修験者の霊場として栄えるようになった。「保安3年(1122),河内の僧・愛智房延僧により前身である黄竜山青黄竜寺が創建」されたという情報もある
 鎌倉時代の前期には東大寺の配下に収められたが、やがて独立した。その後、天正伊賀の乱(1581)で織田信長と伊賀国人の激しい戦いの中で焼失。その後、藤堂家の祈願所となって復興したのは江戸時代に入った寛永十三年(1636年)のことだという。
 今は、この寺は天台宗に属し、延寿院という名前になっている。本尊は今も赤目不動尊と呼ばれている。

(2)満行和尚が持ってきた「赤目不動」

 さて、この伊賀の延寿院が復興を遂げる少し前のことだ。江戸幕府2代将軍秀忠の時代、元号でいうと元和年間(1615~1624)のことである。
 一人の僧侶がいた。名前は満行または万行と伝えられる。そして、縁起によれば、この名僧は比叡山南谷というところにいた高徳の僧であったという。
 万行はいつも不動明王を崇拝し、昼夜おこたることなく不動明王の真言を唱え、
「ねがわくば真実のご尊体を拝みたい。ぜひお姿を現わしてください」
と願っていた。

 すると、ある夜の夢に子供が枕元に現われて、告げた。
「万行は長年にわたって、深く不動明王を信仰してきた。伊賀国赤目山に来い。不動明王の霊験があるであろう」
 言い終わると子供は金色の光を放って、飛び去った。
 万行がこの言葉を信じ、お告げどおりに行動したのは言うまでもない。すぐに比叡山を出発して、伊賀国赤目山に登り、絶頂の岩に三日三夜座った。その間ずっと不動の真言を唱え、手には秘密の手印を結び、心の中ではひたすら不動明王の来迎を待っていた。すると、不思議なことに虚空から声があった。
「汝、謹んで聴け。我が身は無相空寂、周遍法界である。あるときは仏として現われ、降魔忿怒の姿を示すこともあるが、末世で素質のない者はそれを見ることができない。しかしながら、汝は命を惜しまず、信心が深いために、この霊像を与えよう」
 その声とともに、何かが手の中に投げ込まれた。万行が手のひらを開いてみると、なんと黄金で1寸2分(3.6cm)の不動明王の尊像である。悪魔を降服させる忿怒の表情、激しく燃え上がる火炎の様子など、尊くも見事に作られた聖像である。万行は歓喜の涙にむせび、礼拝し、供養した。
 それから、赤目山を下り、比叡山南谷の庵室に安置した。

 万行はやがて、多くの人々を教化しようという願を起こし、この赤目で授かった尊像を持って関東に向かった。そして、下駒込の一画にお堂を建て、尊像を安置した。そのうち、参詣の人々の祈りがかなえられることも少なからずあり、やがて不動坂と呼ばれるようになって参詣者も増えていった。

――というのが、今、目赤不動で配られている縁起、ならびに昭和十二年刊の『本郷区史』に書かれている内容である。

 しかし、江戸時代の資料では、ここまで詳しいものはない上、内容もかなり食い違っている。
 たとえば、万行(または満行)の出身は「伊賀国赤目山の住職」となっており、「比叡山南谷の住職」と書いているものはない。
 また、この像の由来についても、こんな感動的な物語は江戸時代の文献にはまるで見当たらないのだ。

「この本尊は、伊州赤目山第二世万行和尚が廻国のとき、どこのだれともわからない者がやってきて、尊像を授けた」(『江戸砂子』)
「伊州赤目山の住職・萬行和尚が回国のときに携えていた不動の尊像、しばしば霊験があるため、その威霊を恐れて、別に今の像を彫刻して、その像を秘仏とした。そして赤目不動と名付けて、ここに一つのお堂を建てたのである。はじめは千駄木に草堂を作って安置していた」(『江戸名所図絵』)

 江戸時代後期の文献にはこのように書かれている。「どこのだれかわからないけど、くれた」などとは、あまりにもひどい由来だが、そう書いてあるのだから仕方がない。
 要するに「赤目から来た万行和尚が持っていた不動だから赤目不動」というのが真相ではないだろうか。つまり、この前段で、縁起や『本郷区史』に基づいて長々と書いてきたのは、後世(昭和以降)の脚色ではないか、ということである。『文京区史』によると、万行という名前は、廻国修行者を呼ぶ一般名詞と注釈されている。比叡山出身というのは現代における権威付けとして付け加えられた内容だと考えた方がよさそうだ。

 いずれにせよ、伊賀国赤目山と関係の深い万行(満行)和尚が、江戸・下駒込/千駄木に不動像をもってきて安置し、それが「赤目不動」と呼ばれた、というのがここまでの流れである。まだ「目赤」にはなっていない。

(3)引っ越して「赤目不動」から「目赤不動」へ

 駒込の赤目不動に転機が訪れるのは、寛永五年(1628年)のことである。目黒・目白と同じく、例によって例の如く――であるが、三代将軍家光が鷹狩りの途中でこの赤目不動の草堂に立ち寄った。
 そこで、家光は、駒込浅嘉町にあった藤堂家屋敷跡を敷地として寺院を建立することとし、また、「目黒・目白に対して、目赤と呼ぶべし」」という命を下したというのである。藤堂家といえば、伊賀の本家・赤目不動の延寿院を祈願所としているという話で出てきた。伊賀でも駒込でも、赤目/目赤不動は藤堂家とつながりがあったようで興味深い。

 さて、縁起によると、この新しい寺は天台宗羽黒の支流に属し、万行が住職となって、大聖山東朝院と名付けられた、という。そして、赤目不動ともう一体の像を祀っていたが、寛永十八年(1641年)三月二十六日、万行権大僧都は亡くなった、という。

 ここで思い出していただきたいが、目白不動は真言宗豊山派の一派であった。そして、村山修一著『修験の世界』(人文書院)からもう一度引用すると、「近世最も勢力のあった羽黒山は寛永十六年(一六三九)以来、天台に属し」とある。
 縁起に書かれている「天台宗羽黒の支流」というのは非常に唐突だ。そもそも、羽黒山が天台宗に属したのが、万行の亡くなるわずか二年前。それまでは、天台宗であったことは間違いないだろうが、羽黒山系だったということはありえない。このあたり、どうも資料が曖昧である。
 いずれにせよ、天台宗羽黒山の流れにあったということは、目白不動とは直接的に対立する立場にあったということである。

 江戸時代の文献で目赤不動のことが初めて登場するのは正徳二年(1712年)の『和漢三才図会』だが、ここには「目赤の不動――染井に在り。吉祥寺と号す」と、別の寺の名前が書かれている。今の目赤不動のすぐ近くにその名も吉祥寺という寺があるが、これは明暦の大火(1657年)後に水道橋から移転したものであるから、万行が住職だった寛永五年から寛永十八年の間にはこの名前だったはずはない。おそらく、近所の寺の名前を混同したと考えるのが自然だろう。

 ところで、別冊宝島『徳川将軍家の謎』に収録されている井上智勝氏の「江戸守護の呪的バリア「五色不動」とは?」という記事には、目赤不動の経歴についてこう書かれている。

天明八年(一七八八)に至って寛永寺の直接の末寺となり現在の「南谷寺」の寺号を得たという。つまり、寛永寺に属して初めて寺院としての体裁を整えたのである。

 実は、この年代は間違っている。というのは、それより五十年前、享保十七年(1732年)に出た『江戸砂子温故名跡誌』巻之三に「○目赤不動堂 大聖山南谷寺 天台上野末 駒込。」と明記されているからだ。この時期にはすでに天台宗の寛永寺の末寺となって、南谷寺という名称もあった。

 別にケチをつけたいわけではないのだが、目赤不動で今配られている縁起には、もう一つあやしいところがある。「ゆえあって智証大師作の不動明王の霊像を得ることになり、これを前に安置し、黄金の尊像はその後ろの宮殿に秘置した」と書かれているのだ。

 もう一度、『江戸名所図会』の記載を振り返るならば、「伊州赤目山の住職・萬行和尚が回国のときに携えていた不動の尊像、しばしば霊験があるため、その威霊を恐れて、別に今の像を彫刻して、その像を秘仏とした」とあった。赤目から携えてきた小さな像は秘仏となった、というところまではいいのだが、前に安置されたのが『江戸名所図会』では「今の像」とだけ書かれているのに、今の縁起ではいつのまにか「智証大師作の不動明王の霊像」にグレードアップしている。

 ちょっと待ってほしい。智証大師とは、別名を円珍という。この円珍は、目黒不動のところで出てきた慈覚大師・円仁とともに、伝教大師・最澄の二大弟子なのだ。それだけでは済まない。実は、円仁と円珍の門下たちは後に対立しているのである。円仁の派閥は天台宗山門派、円珍の派閥は天台宗寺門派となった。

 目赤不動が一時は天台宗・羽黒山系だったということは、真言宗豊山派・湯殿山系の目白不動と鋭く対立するし、また、その像の一つが智証大師・円珍と関連していると主張するのであれば、慈覚大師・円仁が刻んだという目黒不動とも相容れないことになる。

 「天海僧正が江戸鎮護のために五色不動を建立した」という伝説に相反して、目黒・目白・目赤は由来からして不倶戴天の敵同士なのだ。

(4)対面!目赤不動

 目赤不動のある南谷寺へ行くには、地下鉄南北線の本駒込駅2番出口からが近い。出口を出て少し右手の横断歩道を渡ればすぐ目の前にある。道から少し下がるような感じでお堂があるので、左右のビルなどに紛れてしまいそうだ。

画像1

 入り口すぐのところに、江戸時代の切絵図(絵地図)のコピーが貼ってあって、筆で「目赤不動」と書いてある。

画像2
画像3

 目赤不動尊が祀られているこじんまりとしたお堂は右手。前には六地蔵など賑やかだ。

画像4

 反対側から見たお堂。都会の中にあって、静かなたたずまいである。

画像5

 目赤不動の額もなかなか立派である。

画像6

 さて、お堂の正面から不動尊ははっきりと姿を現わしている。もっとも、これは万行和尚が授かった小さな目赤不動本体ではなく、その前に安置するように作られた木造の不動尊像であろう。それでも、目黒・目白ともに秘仏扱いだったのに比べればずっとインパクトがある。

画像7

 やはり忿怒形の不動尊は強烈な印象を与えてくれる。

(5)むかし目赤不動のあった動坂

 目赤不動のある南谷寺から田端駅の方向に向かって歩く。病院を通り過ぎてその先にあるのが、もともと目赤不動のあった「不動堂」があったという「動坂」である。不動坂がなまって動坂になったようだが、不動が移転して打ち消しの打ち消しで「不・不動坂=動坂」になったようで面白い。

画像8

 不動堂があったのは、不動坂の上、今は公園を少し下がった交差点の近くということになる。

画像9

 動坂上。

画像10

 道坂の途中に、由来を書いた案内板がある。

画像11

 動坂下交差点。

画像12

(6)目赤不動年表

 目赤不動についても、今までと同じように年表にしておこう。

【江戸時代】
・元和年間(1615-24)伊賀国赤目山(または比叡山南谷)の万行和尚が回国修行してきて、駒込村の千駄木・動坂に草庵を結んで不動堂を建立した。赤目不動と称した。
・寛永五年(1628)、将軍家光が鷹狩りで訪れた。藤堂家の屋敷地を賜り、さらに目黒・目白に対して目赤とよぶように、との鈞命があった。このとき「大聖山東朝院」と称する。
・寛永十三年(1636)、伊賀国の延寿寺(赤目不動)が藤堂家の祈願所となって復興。
・寛永十六年(1639)、羽黒山が天台に属する。目赤不動は羽黒山系に属する。
・寛永十八年(1641)、万行和尚没。
・享保十七年(1732)までに、寛永寺の末寺となり、南谷寺という寺号を得る。

 目赤不動は、家光に敷地を賜ってから全く動いていない。
 さて、この目赤不動は、目黒・目白に比べると、はっきりとした歴史がわかりにくくなっている。縁起でも誇張が多いようで、真実を探るのが難しくなってくる。しかし、目黄・目青と違って、江戸時代に存在したことは間違いないわけで、その点はまだマシといえそうだ。

(初出:2005年5月25日~2006年9月10日)


➡ まぼろしの五色不動【5】江戸時代、五色不動はなかった
⇦ まぼろしの五色不動【3】目白不動のにぎわい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?