特別法は一朝一夕にして成らず


少し北の十島村も、奄美と同じように戦後の米軍の占領政策により分断され、奄美より少し先に復帰したので今年の2月10日で復帰70周年。おめでとうございます。
NHKの配信記事で当時の口之島での、ヤミ市規模が大変大きかった事などを改めて知ることが出来ました。

が、少し気になったのがこちらの朝日新聞の記事。

また、本土と分離して米軍統治下に置かれた沖縄県や奄美群島、小笠原諸島のような復帰後の振興をはかる特別措置法が、村には設けられなかったことを「大きな格差」と指摘。2022年度末に改定時期を迎える離島振興法による支援の充実を求めた。


うーん…(´-ω-`)

気持ちは理解出来るけど、大きな勘違いしてる。
復帰を機に始まった特別予算「奄振予算」は、別にシマッチュが黙ってて国からもらえたのでは無いのです…。

明治の学制令以降(奄美の場合は明治5年、1872)に1953奄美群島各地で「これまでのキビ百姓から脱却するには、維新後のどんどん新しくなっていく世間に合わせてシマを良くしていくには教育しかない」って必死で子供らに学問をつけさせようとした。
それこそ借金してでも、集落でお金集めてでも、優秀な子には「挑戦する機会」を与え続けた。

結果、島に帰って来なくても、内地で優秀な成績を収めて国の行政機関に携わったり、法律の専門家になったり、今や誰でも知ってる社名の会社を設立したり、政治家になったりした。

そしてその人たちが奄美の米軍統治の時代に一生懸命に本州での復帰運動を支え、復帰した後も「8年放置されて荒れ果てたふるさとのシマを、豊かにしたい」という思いから、「奄美群島振興開発特別措置法」という特別法が出来た。

後に復帰した小笠原村や、沖縄県もおそらく同様に出身者の働きかけが大きかったと思われます。
国の予算というのは税金です。
税金の使用用途に関して「かわいそうだから」「頑張ってるから」という一時的な感情だけで、特定の分野だけ贔屓して決めるということはあってはなりませんし、そのような人治主義的プロセスで決めることは法治国家として逸脱しています。

なので奄振予算に関しては、相当にシマッチュが時間をかけて育成した出身者たちが、必死に島内・島外から国に働きかけた成果です。
掘り下げると「明治初期の島内の現状を危惧した奄美群島民が、いかに子供らに教育と挑戦する機会を与え続けたか」の結果。
そこに至るまで81年かかってる。
「教育は国家百年の大計」と言われるけど、それは地域でも同じこと。

いかに奄美群島内の子供らに郷土愛の芽を撒くか、子供らの個々の特質を生かして伸ばすのか、挑戦する機会を与えるのか。

それを島の大人たちが真剣に考えてこそ行動力や考える力、ひいては高度な政治力が育まれるのではないでしょうか。

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