普通であることが必ずしもまともで正しいとは思えない

私は"一応"発達障害(ASD)と診断を受けたのですが、ふーんそうなんだねとすんなりと受け入れてくれる人、いやそんなふうには見えないし診断が間違っていると受け入れてくれない人、さまざまです。

もちろん知り合い全員には打ち明けませんから、聞いて理解してほしい人に伝えるわけなので、否定されるとショックではあります。

でも、その否定された方は悪気がないのもわかるんです。むしろ、きっとこちらを励まそうとしているんだなと、時間を置いて考えたりはするんです。

どんなことを言われているのか、話をされているときは受け入れがたくて頭に入らないのですが、思い返してみるとたぶん、
「あなたは普通の人間だ。発達障害だと思い込んで自分の能力を卑下しているだけだ。頑張ればできるはずなのを障害を理由にできないと思って努力しようとしないだけなんだ。発達障害ってのは幼少期からもっと顕著にできるできないがはっきりしているはずだから、あなたはそれに該当しないと素人ながらに断言できる。」
要約するとこんな内容だったような気がします。。
(医師には開始5分もしないうちからグレーゾーンではない判定だったのですが。。)

その人にどのような発達障害のお知り合いがいるのかは存じ上げないですが、皆が皆同じ症状で、同程度の障害をもっているわけではないですよね。それこそスペクトラム(連続体)で、グラデーションのあるものなはずですので、だからこそ専門の医師でしか診断が下せないわけで。

その人はおそらく本当に悪気がなく、"普通"であることを説くことで私が喜ぶと思われたのでしょう。そして発達障害は"普通"に劣る、見下す感覚を持っているのだなと同時に感じました。要は区別でなく差別って感じですかね。
それはいいのです、感じ方や考えまで強要できるものではないのは重々承知です。
ただ、わたしは「ふーん、そうなんだ。それでASDとは具体的に何なの?」と興味を持つか、すんなり受け入れてもらいたかったというのが本心です。
私はこの人には知っておいてもらいたい、この人は大丈夫だろうと期待してしまったからこそ、まぁそういう反応をされるのかと、びっくりはしました。バカにはされなかったので自らの人選的な判断には間違いはなかったものの、伝え方やタイミング、準備は不足していたなと反省したものです。

話が少し逸れますが、昔から私はいわゆる"普通"とか"常識"というものがよくわからないで内心困っていることが多々ありました。でもそれを表面に出すと集団から孤立しそうで、"普通"とか"常識"的な行動をする他人を見てひたすら覚えようとしていたと思います。
私は『"普通"とか"常識的"に正しい反応』=正解が知りたかったのです。

だからこそ時々シチュエーションを間違えて思い切り場違いな行動をしてしまって、やってしまった後に周りに視線を感じて背筋が凍る経験をよくしました。今でもあります。「あ、いまのは"普通"の反応ではなかったのか…」

普通の人は"普通"が元からわかっているのか、"普通"を自然にできるのか、"普通"を経験で覚えていくのか、全くわかりませんでした。なので学校の友達やその他のコミュニティでの人間をみて、「みんなすごいなぁ、自分も早く"普通"が理解できるようになりたい」と思ってほぼ毎日を過ごしていたなと思い出します。
でもその"普通"に私だけ違和感を持っているのか?ということにも出くわすことも多くありました。

大人になってからもそれはあります。
会社勤めの人は8時間労働の週休2日制が"普通"以下で、残業までして頑張って家庭のことは配偶者や親世代に任せるのが"普通"。
上司と部下は対等ではなく、上下関係が"普通"。
年功序列が"普通"。
行きたくもない飲み会に付き合うのが"普通"。
その飲み会ではグラスが空いたら気を利かせて注いだり、次は別の注文にするかさりげなくお伺いを立てるのが"普通"。

それらの"普通"は私の感覚からすると、とてもまともだとは思いません。
その飲み会が楽しいのでしょうか。まぁ脳が麻痺するので嫌なことを忘れられて楽しいのかもしれません。楽しいのでしょう。
では違う例で年功序列の極端な話ですが、100歳の犯罪者が何の反省もせずに目の前にいたとして、無条件で尊敬しないといけませんか?年齢と人間性とに、何の因果関係があるでしょうか。
尊敬すべき年配の方とそうでない方がいるのは当然として、尊敬できる年下の方やお子さん、下手したらそんな動物だっていておかしくないのにそこに目を瞑ってしまうのはなぜでしょうか。

相手の人間性もわからない状態だとして、初対面でも年齢の差でタメ口や呼び捨てでマウントしたくなる方は多いと思うのですが、相手が自分と比較して年下だからタメ口や呼び捨てが罷り通って、年下の相手が自分のことを対等または舐めた態度をとると怒りが湧いてくる、それのどこがまともなんでしょうか。少なくとも親しくなるまでは年齢性別関係なく丁寧語、さん付けが標準装備だと私は思っているのですが、これは"普通"ではなく慇懃無礼かもしれないらしいです。全くもって難しい日本社会です。

8時間以上平日働いて、下手したら休日も働いて、そこで貯めたストレスを休日や連休といったタイミングで晴らす。旅行したり、ショッピングに出かけたり、インターネットで散財する。これは、私からすると資本主義の思う壺というか、イライラを散財で解消させることに違和感を持たせないシステムのように思います。SNSも同様です。ワイドショーも同様です。
不安や怒りを増幅させて、広告を挟む。不要なモノを買わせるために。
ひょっとすると国そのものも貧困層が増える(増やす?)ことでいらだちを無くなさない、購買意欲を永続させて資本主義を維持させるシステムなんでしょうか。
恵方巻き、バレンタイン、ハロウィン、クリスマス。大量生産の果てに大量廃棄の世の中、まともなんでしょうか。
これに支配されることの、この日常、この"普通"の生活は、本当にまともなんでしょうか。

8時間も働きたいですか?長くないですか?毎日同じ時間の必要ありますか?仕事の増減で早上がり、残業を好きに選択して月単位(とか一年単位)とかで調整すればいいのでは?違う内容の仕事しているのに社員で本当に同じ時間に出勤する必要あります?残業が良くて遅刻がダメなのはなぜでしょうか。
早めに仕事開始して平日から13時くらいに仕事あがって、残りの時間を街を散策したり家族と過ごしたいと思ったことはないですか?
そんなことを気軽にできる(="新しい普通")の世の中は何でやって来ないのでしょうか。

元々近代化にあたって12時間とか10時間労働が問題視されて8時間となっただけで、今も一律そこに合わせる必要が現代にあるのでしょうか。
現代の"普通"はまともなんでしょうか。

わたしには"普通"はよくわかりません。違和感と謎だらけ、少なくとも無条件に信用できることではないことがたくさんあり過ぎます。
でも世間の言う"普通"とは違う自分を感じたときにはなぜかショックを受ける。集団から外れそうなのは怖いという自分を消すことができないのも事実としてありまして。。

極端な話、発達障害、"障害"と命名されているのは、こと現代社会システムにそぐわないからだよな、とか思っています。いや、ひょっとすると"少し前までの"現代社会でしょうか。
時間の管理が得意でコミュニケーション能力が重要で、ジェネラリストが求められる。平均的で平均以上の水準を求める。大学入試みたいな感じでしょうか。満遍なく点が取れることが求められ、突出した能力があっても他がなにかダメだと評価されないで落とされる。

でもネットが普及した現代、突出した能力を評価する機会は確実に増えたように思います。そこに情報操作されることの危険性を加味しないといけませんが、崩壊しつつあるコロナ前までの現代社会と今現在進行中の社会システム、私が"普通"がわからずそれらに対して違和感を抱くことは、苦しいながらもむしろ今においては"有り寄りの有り"かもしれない、なんてふと思いました。

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