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自分が「書く」のは何の為?

昨日の記事の続き。

「やりたいこと」と「やるべきこと」が一致しているひとがうらやましい、という、そんな書き出しで昨日の記事は始めた。

では。

私の「やりたいこと」=「書くこと」と仮定して。

で、それが「やるべきこと」=「仕事」となったら、どんなにかいいだろう、とは思ってきたのであるが。

改めて。
「何故、書くことを仕事にしたいのだろう?」
ということについて、今記事では、まず整理するところからはじめてみようかと思う。


まず、「時間」の問題がある。

例えば、ここnoteに毎日記事を出すようにして、そろそろ半年くらいになるのだが、「書くこと」自体は相変わらず苦労ないのだが、「時間のやりくり」には、なかなか、頭を悩ませているところはあるのである。
――つまり、「もっと時間さえあれば!」ということである。

私は午後から出勤する仕事に今現在は就いており、こちらの記事を書くのは、概ねその日の午前中、つまり出勤前となる。

今のところ、なるべくその日の「即興」で文章を書くようにしているのだが、正直なところ、「ああ!出勤しないですんだら、どんなにかいいだろう!!」と、書きながら思っていたりすることも多い。(笑)

場合によっては、出勤前の食事の時間を削って書き上げたりしているので(自分で好きでそうしているだけですけど)、単純に、「せめて、あと2,3時間でもいい、時間の余裕をもらえたら!」と、思うところは、やはりあるのである。

と、なると、やはり「この、書くこと自体が、仕事だったらいいなあ」と、――そうすれば、何なら一日中、起きている時間全てを、執筆に費やしてもよくなるわけであるから。

そうなのである。

私は、この書いている「『内容』を表に出すこと」自体も、もちろん好きなのであるが、そもそも、内容にかかわらず、「文章を書くこと」そのものもまた、とてつもなく好きなのである。――「言葉を選んで、それを組み立てて、綴る」というこの「パズル」自体が好きだし、自分の一生、死ぬまでをかけて、もっともっと「書いて表現する」ことについて上手くなりたい、と、思っているのである。(――それは、最期まで遂に仕事にはならなかったとしても、である。)

然すれば、「文章を書く」ことを、「技術」として研鑽して、それを自分のものにして駆使する、「手に職」の「仕事」にできたら、言うことナシなのだが、と。――自分の生きる時間を、そのまま「書くこと」に丸ごと費やせるわけだから、そうなったらどんなにいいだろう?と、いうことは、やはり考えてしまうのだ。


あとは、文章を書きあげた以上、それを「なるべく多くの人に読んでもらえたらうれしい」ということがある。

「知らない人が趣味で書いたもの」より、「プロの人が仕事として書いたもの」のほうが、同じ内容でも、明らかに後者のほうが読んでもらえるのではないだろうか。

無論、誤解のないように言っておくと、私がここに出す文章は、「趣味で書いたもの」ではあるけれど、割と「本気で」書いている。
だから、多分「文章の質」としては、「仕事で」という肩書があろうとなかろうと、変わりはないはずだ。
(これは言い換えると、「時澤言森の全力はこの程度」ということでもありますね、ハイ。笑)

また、私にしては上出来の、十分すぎるくらいの人数の方に、一記事一記事、幸せなことにご訪問いただいていて(ホントにうれしいです!!!)、今の時点で既に、「狂おしいほどに大感謝!」なのである、――が、人間の欲は尽きないもののようで(笑)、「まだまだ更に、多くの人に読んでもらいたい」なんてことを、つい考えてしまうわけである。
(どれくらいまでになれば、満足するのだろう?――「尽きせぬ」なんて書いたけど、多分、実際はそんなこともなく、ある程度の数字に達すれば、自分は「正真正銘、これ以上は望むことはない満足」になる気もするのだが、……そこの想像がまるっきりつかない。)

(話を戻して、)
だからこそ、「仕事で書いています」という「肩書き」を求める気持ちもあるわけだ。

「書く時間をもっと確保したい」
「多くの人に読んでもらいたい」

やはりこの二つは、「欲望」として、取り下げることはなかなかできないので、まあ「秘かな野望」程度には、「書くことを(ごく一部でも)仕事に」という望みを持ち続けていこうかな?というふうには思っている。

――と、言いつつも。

最近になって、私は、前述の「秘かな野望」について、「叶わなかったら、叶わなかったでも」という気持ちになりつつあるのである。

それは何故かと言えば。

やはり私にとって、「書くこと」は、「私自身」であるから、「仕事になるなら何でもいい」とまでは思えないし、「多くの人に読んでもらえるなら何でも書く」というふうにもなれない、と思ったからである。


いや、……違うかもしれない。
(?!)

もしも、時間が無限にあったら。

「仕事になるなら何でも書く」や「多くの人に読んでもらえるなら何でも書く」を、試しにやってみたいと思う。
(やるのかよ!笑)

だって、そのために「筆名」があるわけだから。
――つまり、「自分が純粋に書きたいものを書く人」と、「仕事で、あるいは読者数を、とにかく稼ぐ、その目的のためだけに書く人」を、二つの筆名で分けて、私を「二人」にしてしまえばいいのであるからして。

――いや~、時間さえあれば、これ、ホントに挑戦してみたいなあ~!
(そりゃあ、難しいことは重々承知だけど、単純に面白そうだから!)

「自分が書きたいこと」はとりあえずそっちの筆名では置いておいて、「とにかく多くの人に読んでもらう」そのことだけを考えて書く、というのは、それはそれで「ゲーム感覚」もあるし、楽しそうだ。
――「このネタは、ウケるんじゃないか?」というのは、いくつかあるかなあ?
(実際やってみないとわからないけど。でも、いくつでも筆名を作って、それぞれでいろいろ試してみればいいんだし。)

……。

――なんてことを考え始めてしまうから、「時間が有限」で、これはこれでよかったのかもしれない。
(「とりかえしのつかぬもの」を、世に出すところだったかも?――「筆名」って言ったって、「自分」であることには変わりないのだからね!笑)

(ま、そんな冗談はさておき。)

それにしたって、「原稿料を頂戴する」ということは、則ち、「自分が書く」ことについても、そこに「雇用主」が生まれることになるわけだから。
――場合によっては、「これは全て私です」と言えないものを書くことになる可能性はあるわけである。

「雇ってあげる」
→「(ある程度は)こちらの意向を汲んで書いていただかないと」
と、なるのは、ある意味、お金を出す側からすれば、おかしな要求ではないはずなのである。

「仕事として書く」というのは「お金をいただいて書く」わけだから、必ずこういう側面が付いて回るであろう。

それを受け入れるとしても。

場合によっては、例えば何かの「宣伝」を書かねばいけないのだとしても、「えー、自分は、宣伝だとしても、こんな下手な内容では宣伝しないけどなあ」というような「自分のセンスでは全否定」なことを、「自分の筆名で」世に出さねばならない、なんて羽目になる可能性だって、なくはないだろう。

そういえば以前、(どなたかは失念したが、)有名な作家の方で、ある企業の広告用の文章を書いたら、勝手に「手直し」されて掲載された、なんて憤っていた方がいらっしゃったが。
――ひえー、著名な作家でもそんな目にあうの? そんなことが罷り通るとは、ぬゎ~んて、書き手とその文章に対してリスペクトのない社会なんだ!!と、私は、何だか自分がされたみたいに(勝手に想像して)(夢も希望もない!という意味でも)ガッカリした記憶がある。

「私が書いたものです」と胸をはって言えないようなものは、少なくとも、今このnoteで使っている「時澤言森」の名前では、やはり世に出さない。
――お金になるのだとしても、この名前では、出さない。

ここに「時澤言森」の名で書いているのは、紛れもなく、「私自身の言葉」であり「私自身の心の声」である。

これは「私という一個人」にとっての、ある意味「聖域」だ。
(人は誰でも、そのカタチは様々に違えども、他人が無断で手を入れてはいけない「聖域」を携えているものだと、私は思っている。)

そう考えると。

むしろ「限られた人生の時間の中でやらねばならない」からこそ、私にとって、書くことが「仕事になる・ならない」は、二の次、三の次、ということで、いいのかもしれない。






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