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「信じだしたらきりがない」のほうが正しい

「疑い出したらきりがない」
なんて言い方があるけれど。
――今の世の中はその逆のほうが正しい気がした。

「信じ出したらきりがない」
こちらの言い方のほうが、しっくりくるように、私には今感じられて仕方がない。

自ら探りにいかないと、誰かが「真実」を届くように投げてくれるわけでもない今の世の中だ。――「知らされて然るべき真実」でさえも、まったく遮られ、見事にすっかり隠されてしまうことも多いのだ。

「疑ってかかる」ことには、確かに、エネルギーがいる。(特に「心理的エネルギー」が多分にかかる。)

でも、「疑う」には、答えが必ずある。
「疑った通りだった」
「疑った通りではなかった」
あるいは
「真相は知り得ない、永遠に藪の中だ」みたいなこともまた、一種の「答え」だと思う。

しかし、「信じる」のほうには、改めて答えは用意されない。
――どこまでいっても、「信じている人は信じている限りそのまんま」である。(それを「安心」「安定」と感じる人がいることも重々承知しているが。)

「信じる」という言葉の、清いようなイメージとかどこか甘美な響きとかは、少々「毒」だとも思う。――「信じ切る」という行為は、誰もが「中毒」や「依存」になりやすいものなのに、でもそのイメージや言葉の響きのせいで、それに気づきにくくもなる。

「信じる者は救われない」世の中なのだ。
――誰だよ、こんな世の中にしてしまったのは?!
と、思う今日この頃である。


「一度信じたものは、疑いたくない」
というのは、人としてありがちな心理である。

しかし、そういうのを「妄信」ともいう。

たとえば、「それってきっと騙されているのでは?」「あなたが信じているそれは、事実とは違うかもしれないよ?」と誰かに指摘されて、もし怒りが湧いてくるのだとしたら、それは「妄信している」証拠だとも思う。

たぶん、「ある部分」では、インターネット上で主にニュースを摂取している層と、テレビから主にニュースを把握している層とでは、「感じている世界」は、全然違うものになっている気がする。

どちらのほうが正しいということではない。ニュースの専門家ではないから、私にだってそんなことはわかりえない。――しいていうなら「どちらもいちいち疑ってかかれ」であろう。

いずれにしても、「同じ世界のはずなのに、人によって得る情報が違って、必ずしも同じには見えていない」という「現実」は、知っておいたほうがいいのではないかと私は思う。

しかし、まあ、私だってきっと、人のことは言えないのだろう。――「この世のすべてを一度は疑ってかかる」というのは、相当なエネルギーが必要だから、私もあるいはどこかの部分については「盲目的に」なって情報を得ている部分はあることを認めざるを得ない。――でも、そういう「自覚」は、どこまでも失わないでおこうとは思っている。

〈追記〉
そうそう、そうでした。
基本的に私は「底意地が悪い」人間なので、元から「人や社会を疑う」のが得意なのでした。
あと、とってもケチなので、「騙されるくらいなら、手間がかかって面倒でも、いちいち疑ってかかったほうがいい」とも考えるタイプなのでした。
あとは、ベースが「人は大前提として個人であれ」という「集団嫌い」の人間でもあるので、「敵も味方も元からナシ!全員はなからは信じられないぜ!」なんて状態には滅法強いのでありました。
――こんな自分の「短所」ともいえる様々が、こんなところでちゃんと「効き目」を発揮しているとは、思いもよりませんでしたよね。(笑)