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ナウシカの「腐海」を見倣ってな(めぐりめぐって)

たとえば、もし私自身が幼少期に、「毒親に日常的に生活を破壊される」とか、「極度の貧困でその日食べるものもままならない」とか、そういう状況に陥っていたら、「誰でもいい、誰か大人の人で、自分を救ってくれる人はいないだろうか」と、やはり考えるだろうと思う。

本来、その「仕事」は、国であり、地方公共団体でありが担うべきであろうが(そういうことにも対処してほしい、それも含めて、我々は税金を納めているのだ! が、)しかし、実際にそれが行き届かない状況であったなら、「誰でもいいから」と、切実に、私は考えただろう。
そしてそこに「誰からも救済が来ない」「自分のこの声は、この世のどこにも届かない」と知ったら、「この世界というもの全体」に対して、絶望だって覚えるかもしれないし、場合によっては、呪ってだってしまうかもしれない。(それを「逆恨みだ」とは、私はどうしても言えない。)



「そういう環境で育った人は」といった端的な言い方が、私は好きではないし、頷きたくはない。
人はいくらでも変わっていけるものだからである。

しかし、実際、その人の人格形成に、「育ってきた環境」が、少なからず影響を与えるということは、事実としてあるだろうことは認めざるを得ない。

(繰り返しになるが、「端的な」「大雑把な」言い方を私は好まないが、あえてここではそれを使うとして、)猛烈な毒親に育てられた人がいたとして、場合によってはそれは「誰かに救済されるべき子供時代」ということも、現実問題としていくらでもあると思う。(現在進行形の問題として。)

前述の通り、「救うべきその責任」は、国であったり、地方公共団体であったり、あるいは学校であったりにあるのだとはまた思うわけなのであるが。
――しかし、「社会全体」ひいては「私達一人一人」にもまた、その責任は、「全くない」と言えないのではないだろうか。
(法的にそこに「義務」は発生していないとしてもだ。――「人の道理として責任がある」という言い方もできるかもしれない。)


しかしである。
現実的には、一個人にとって、やはりその対処、「行動に移す」ことは難しい。

――「救うべき」だとしても、「すべての人を救うことはできない」と、私はどこかで思ってしまう。
たとえば、「困っている子供が、(今現在もなお)どこかに必ずいるであろう」ことは、薄々わかってはいても。

やはり、難しい。


「救うべき子供」の例は、「あくまで一例」でしかない。

「救うべき対象なのに私が何も手を差し伸べていない」のは、何も子供だけに限らない、それ以外にもいくらでもいるだろう。

私自身が「触れるべき」つまり「それを対処しようと動くべき」「何らかのアプローチを試みるべき」そういった「状況」は、この世のそこかしこに、確実に(今も、あるいは既に)存在している。

が、私は都度「見て見ぬふりをする」。(している、してきた。)

「なかったことにする」更には「無視する」「救済を求める声に耳を塞ぐ」――そんなふうにして、私は日々を生きている。
「それでいいとは別に思っていない」が、「実際そうしている」。


(で、むしろここからか本題です。スミマセン。)

自分が大人になってから、同じ大人の一個人の人間から、あるいは、同じ大人である人間たちが作っている世界の一部から、「毒」を振りかけられることは、時々あったりもする。
その「毒」とは、ある種の「理不尽」然り、また、ある種の「暴力」(身体的なものに限らず)然りである。

それらに対して「何故?」と思うし、許せないし、認められないし、許す必要も認める必要もそこにはない。
――のであるが、「そういうものが存在すること」それ自体は、「めぐりめぐって」仕方ないのかもな?なんてことを、この頃思うようになった。


あの日、あの時、「私自身が」対処もせず無視してきてしまった「状況という毒」があるわけである。
――何も対処しなかったのだから、その「状況という毒」は、やはりこの世のどこかを、「いまだに」漂っていたっておかしくはない。
(この世界の「何らかの自浄作用」が、その後のその毒に対して、とっくに私の与り知らぬところで働いてくれている可能性もあるが、一度も働いていなくてそのまま、ということだってあり得る、という意味で。)

(繰り返すが、認める必要も許す必要もそこにはないのだが、)その「どうしたって存在するこの世の理不尽」というものを、「巡り巡って自分のもとに来てしまった、状況の毒」だというふうに解釈してみようかな?と。
(もちろん、ごく個人的に。――今回は究極の「個人の感覚です」話だと思う。)


「やられたからやり返す」の精神では、その「毒」は、永遠にこの世から消えていかないわけである。
(無論それは「その相手にやり返す」だけでなく、「別の無関係な誰かに返してしまう」の「連鎖」ケースも含む。)

その、巡り巡って自分が直面することとなった「毒」を、今度は自分自身が、少しでも自力で、「浄化」して「処理」つまり「無毒化」していかなきゃいけないのかもしれない。

そうしなければ、「自分自身が認知している、今現在の自分自身のこの世界」すら、少しも変わっていかない。良くなっていかない。


――自分も自然界の一応「端くれ」なのだから、「毒を毒でないものに変える」ことの、(全体からしたらごく僅かだとしても)「ちょっとした手伝い」くらいは、この世に於いてしないといけないよな?
(ナウシカの「腐海」のようにな。……って、我ながら畏れ多いわ!笑)
なんてことを、この頃は考えている次第である。