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空気も水も、時間も「おいしい」

今朝、週刊文春の伊丹十三の記事を読んでいたら、
伊丹十三のエッセイが読みたくなってしまって。

で、まあ図書館で借りてくる手もあるのだが、
地元の書店を応援したい意図もあって、
(規模としても、あると便利な書店なので、どうしても潰れてほしくないんです、その書店は!)
最近本はなるべくそこで買うようにしていたりもするもんで。

そんなこんなで、記事の中で紹介されていたエッセイのうち、
一番読みたいと思ったものを、
その書店で買えるか、ネット上で先に見てみたら
……在庫切れ。
(何かに紹介されるとすぐ在庫切れになる……よくあることです。笑)

ここで自分、根がガメツイもんで、焦るんですよ、
「それならなおさら今すぐに、
伊丹十三エッセイを他のでも何か、何でも、何としても読みたい!」
となるんです。
(昨日のヤクルト1000も同じようなことでしょうね。笑)
……お、今朝はまだ時間がある、
開店直後のその書店に駆け込んで、ダーッと漁ってこようかな?

と、さっきまで思っていたんですが。

何となくブレーキがかかりました。
――そういう時は、やめるに限ります。

いや、自分の胸に手を当てて、
何でブレーキがかかったのか、考えてみると。

そもそも最近そうするようにしている
「書店に出向いて本を買う」という行為、
無論、先述した通り、地元書店応援の意図もあるんですけど、
でも、理由はそれだけではなくて、
やはり「本屋でゆっくりぼーっと本との出会いをする」みたいなことも
あったりするんです。
――で、あるならば、
「バタバタ時間ギリギリ調整して、慌てて漁る」みたいな感じだと
そもそも、わざわざ本を買うために何故
「書店に足を運ぶ」をしているんだっけ??となるわけです。
amazonで買ってもいいのに、というね。

どの行動にも、何かしら理由とか目的とかあって、
で、ついついその時パッと一番手前に来ているそれらが
目にとまりやすいんですが、
でもその奥側に、
もっと大きい理由が元々あったりするんですよね。
「元から存在する最も大きな理由」って、
割と当たり前になり過ぎて、
すると、いちいち意識しなくなる場合も多い。
――「我、先に!」なんて慌てて焦っていると、
どうもそのあたりをスルーしてしまう傾向がある。


「本屋にわざわざ出向く」→「関係ない本も見て回る」みたいな
こういう「時間の余白をあえて作る」みたいなことのために、
最近は「本を買いに行く」行為をわざわざしているところが
そもそもあったのだった。
(と、改めて考えることにより、なんと、たぶん今気づいた。笑)

最近の自分の読書って、「読み」ももちろんメインなのだが、そちらの
「無駄にも見えてしまいそうな時間の余白をあえて開ける」
みたいなことの理由に、
「一連の読書行為全般」をしているところもあるみたいなんですよね。

時間って、何かを詰め込まずにちゃんと余白を開けて、
「そこにある時間そのもの」として楽しむと、
ちゃんと「味」があるものだと思います。

それはもしかすると、
「空気がおいしい」とか「水がおいしい」に
似ているものかもしれない。

時間も、時間として、
ちゃんとそれだけで「おいしい」のであります。

(例えば、居酒屋とか喫茶店って、そこに流れる「時間」が最大の売り物だったりしますもんね。)