見出し画像

「老いたから無理が出来なくなった」のではなく

「老いてきて、何だか無理ができなくなってきちゃった。」
と思うことがいろいろとある今日この頃であるが。
――いや、しかし、
よくよくよーく考えてみるとそれは、
「身体が素直に正直になった」というだけなのではないか?
そしてそれは、
「若い頃は、気づかぬうちに、
平気で身体にいろいろ無理をさせてきただけかもなあ。」
という感想にも転じる。

例えば、最近、
やむない事情で(遊びとかではもうしませんね、ツラいから。笑)
徹夜に近いことをやったりすると、
数日間に渡って、身体がその影響を引きずっているのがわかる。
(今なら「すぐ」わかります。正直。素直。笑)

でも、これは「老いたから影響を引きずるようになった」わけでもなくて、
若い頃は「そこをなんとかお願い動いて!」と
身体のほうに、実は
ずいぶん無理をさせていたということなんじゃないかな。
身体のほうが、自分のそんな「ワガママ」に、
嫌々ながらもまだ柔軟に対応してくれていただけなのだと思うのだ。
(割とくらだないことでも無理をさせていたと思うわ。笑)
――だってこの例の徹夜の話で考えても、
そもそも年齢が若ければ若いほど、
睡眠時間はより多く必要になるもののはずなのだから。
たぶんその当時は結果として、一週間くらいかけて分散させて、
移動中とか、昼休みの数分間とかで、少しず~つ補って、
不足した休息などの帳尻を合わせていたんだと思う。
――そういえば、当時はいつでも眠かった気もする。
目を閉じればいつでも、そこに君が……ではなくで、
そこで瞬時に眠れた、ような記憶がある。(笑)
とはいえこれも、
仕事等の必ずしもやむを得ない事情ばかりでこうなったわけでもなく。
更には、――「睡眠不足」とか「疲れ気味」とかそういう状態について、
当時はどこか上っ面だけで、
「充実」とか「一生懸命」みたいなイメージすら、持っていた気もする。
今ならこのイメージの持ち方は「間違っていた」とハッキリ思える。
単純に、脳や身体の疲労を回復させないまま、
つまり例えば睡眠不足だったりで、何かコトに対峙しても、
やはり、頭も身体も動きが鈍いし、
「その時にしかできないこと」に対してもまた
集中力も持続力ももたずにダメだし、
つまり中途半端なパフォーマンスに終始したりしてしまうものだったりもするものだから。
――うむ、冷静に振り返ってみるとそれは、
「充実」や「一生懸命」とは、本来違うものだろう、と。


あるいは、そもそもそれは、
「身体」と「心」の
足並みがそろっていなかった、ということだと思うのだ。

「心」が「主」で指示や命令をだして支配し、
「身体」が「従者」でとにかく「心」に付き従うみたいな感覚というか。
――しかし、そんなのはおかしいわけで。
そもそもこの「身体」がダウンして使えなくなった時は、
自分の「心」もろとも、もうこの世にはいられないわけだし。
(少なくとも今と同じようにはね。)


だから、これからは、「身体」のほうの「ワガママ」を
「自分の心」が聞き役となって聞いてあげるようなつもりで、
――って、うーん?――いや、そうじゃないなあ。
身体は、心とは違って、
「正直」ではあっても、「ワガママ」を言ったりはしない。
「ワガママ」や「勝手」を言うのは、いつも心のほうだったような?
(休みを必要としているのに動き続けようとしたり、逆に休みを必要としている状態ではないのに休みたがったり、それ以上「その栄養」は必要としていないのに更に食べたがったり、……例えばこれらは身体ではなくて心の「ワガママ」だと思うな。笑)

自らの「心」の声をよく聞くのが大事ならば(そう、それも大事です)、
自らの「身体」の声も、
(元来、自分は身体が丈夫なほうだから、心より我慢がきいてしまうというか、若干その声が聞こえにくいのかも?)
よく耳を澄まして聞くようにせねばならない、
と、ふと思った次第。