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「幸福感」と「おおらかさ」

私が大人になって失ってしまったもの。

(たくさんあるけど、笑)その中の一つが、「おおらかさ」かなあ、と思う。

そして。
どうも本来の私は、性格的に、「おおらかさ」と「上機嫌」が、セットになっている部分が、人より多くあったのではないか、なんて、最近思い始めているのだ。

つまり、「おおらかさ」を失うことに伴い、「上機嫌」で過ごす時間の分量も、少なくなっていったのではないか、と。


とはいえ、子供時代にだって、憂鬱なことや、嫌な明日や、そういうのはあったはずだ。
しかし、基本的に、今よりはるかに、毎日を「機嫌良し」のほうに照準合わせて暮らせていた気がする、ということだ。
――ってまあこれは、ただ単に「思考回路が単純だった」あるいは「何も考えていなかった」だけかもしれないが。(笑)

しかし、その「単純さ」ならば、取り戻してみたいものだよ、なんて、今、思い始めている次第、というわけなのである。

大人になって私は、一言でいうと「ケチ」になったのだと思う。

いや、人から「奪おう」「騙し取ってしまおう」みたいなのはないけど。――人に対して「利用しよう」「踏み台にしてしまえ」「欺く」「陥れる」みたいなことは、道徳観や倫理観の手前で、自分自身の「気分が悪い」ので(つまり、されるのだけでなく、それを自分がするのも)、だからしてこなかったとは思える。

ただ、いつでも算盤弾いてしまうクセがどこか強くて。
――「最短距離で」「手間を省いて」「要領よく」「効率的に」「少しでもお得に」「損してなるものか」「うまいことやらなきゃ」……等々みたいなことをどこか中心にして、常にいつも、もうそれは条件反射的に、人一倍考えるようになっていた気もするのだ。――そこに異様に執着していた、そしてそれに拍車もかかっていた、というか。


――って、いやまあ、これらは別に「悪いこと」ではないんだけど。

でも「損得」を基準にして常に考える「クセ」がつくと、私みたいな性格の者は、どうも「損を数える」ほうを中心にしてしまうところもまたあり。
――うーん、これでは、「幸福感」は薄まってしまうよなあ、とも思う。


実際、振り返ってみると、「人より損をしている」と感じていた期間のほうが、大人になってからは長いかもしれない。――「何で自分ばっかり」とか「いいのだいいのだ、損をしても誠実に生きるのだ」とか、そういう感じ。
(繰り返すけど、別にこれ、悪いことをしているわけではない……のだが、この「ブツブツぼやいて損を嚙みしめている」感じは、最近の私の個人的所感で一言で言えば、「似非真面目」であり「既に偽善」なんだよなあ。)

それが昂じてなのか。
結局、「常に損得を基準に動く」みたいな、そんな「損得至上主義」が、いつの間にか染み付いていた気もする、ということなのである。
(いや、再三しつこく繰り返すが、人から奪っているわけでなければ、これは「悪いこと」では別にないのであるが。)

「やましい気持ちからではないのなら、得をしようとして、何が悪いのか」。
答は無論、「何も悪くない」。
――ので、そう、今回のこれは、ただただ、私の「実験」「試み」みたいなものとして。

今後、自分自身についての「損得勘定」そこらへんを、もっとゆる~く、してみようかなあ、なんて思い始めている。


もう既に手に入れているものは、これまで通り大切にするけど。
(そこは「ケチ」なままでいくかもしれない。笑)

しかし、「これから手に入れようとしているもの」については、ガッつかないでいきたいなあ、と。

だって、まあ、「どうでもいいと思えばどうでもいい」じゃないですか。――必要最低限のものは、既に手にしていると思えるわけだから。


「新たなものを得よう」とすることは、その分、「今持っているものに注意がいかなくなる」=「大事に思わなくなり、ついつい雑に扱うようになる」という危険性もまた孕んでいると思われるし。
(とりわけ私は不器用で注意力も散漫だから。)

以下の記事↓では、

そこをただ一言で「邪気をなくす」とだけ書いてみたのだが、それに細かく説明を足すならば、ここまでこの記事で綴ったようなこともまた、(個人的感覚として)そこには含まれるわけなのである。


そんなこんなで。

来年2023年は、「おおらかに」、そして「損得至上主義」というのも含めた(私の中での)「邪気」をなくす。
と、いうのを、試してみたいと考えている。


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