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「完全」より「全力」でいたほうが、力は衰えない

「不完全でいいから、
日々、力を、
出し惜しみせず、
出し尽くしたい。」

と、この頃、感じている。


「完璧」を思い描き、
それを目標とすると、
明らかにそれに到達できない場合に
気力が萎えてしまうことがある。

それは、何だか
「もったいない」ことだと思うし、
それなら「完璧」なんて
目指さないほうがいいのかもしれない。


とにかく、毎日、
力を、萎えさせることなく、
出し惜しみせず
出し切るほうがいい、
というこれは、
別に精神論的な話ではなく。

――早い話が、
そうしないと、
「もったいないから」
ということなのである。


力は、出している間こそ、
出せるものなのだ、
とも最近よく思う。

――つまり、
それまでにせっかく習得しても、
出さなくなった力は、
その分、少しずつ、
時と共に衰えて、
この手の中から失われていく訳だ。
(どうもそういうもののようだと、
歳をとってきて、
最近頓に感じるようにもなってきたのである。)
(自分自身もそうだし、
あとは、
老いてきた親を見てもそれは思う。)


なので。

何かの「完成品」のために
力があるというよりかは。

力とは――
「少しずつ、しかし、どこまでも、
伸ばして、蓄えていくもの」
だと捉えたいと思う。

だから、日々、
力を出し惜しみせず、
出し尽くすようにしたいと
私は考えるのだ。

「そのほうが
鍛え『続け』られるから」である。

(以前に
「『結果』より『過程』のほうを
大切にしたい」と書いた記事の
その内容に通じるところもあるかもしれない。)


「人生は終わるまで終わらない」
と考えるとして。

「最期まで、
自分に与えられた身体や心の力を、
無駄なく使い切り、
最後まで力を出し尽くす」という、
それを第一目標とするなら。

何らかの「ゴールを目指す」感覚より
「トレーニングを積み重ねていく」
そっちの感覚をより強く
イメージしていけたらいいのかもしれない。


「えー、そんな、
生きている限り、
延々と上りの階段を
登らされるの?」
と感じて溜息が出るなら、
その時はまあ、
ちょっとどこかで止まって
じっと座って、
ゆっくり休んだらいいだけのこと。
(「無理」は禁物。
「ゴール」が事実上ないなら、
別に焦る必要は何もないのだから。)

(で、しばらく休めば
また昇りたくなるものだと思う、
人間の習性としては。)



あるいは。

「トレーニング」なら、
何らかの「負」の要素に出くわしても、
(てか、いずれ必ず出くわしがちですよね。笑)
それらをトレーニングに必須な
「負荷」だと捉えることもできる。

「負荷」を掛けなければ、
「鍛える」ことはできないし、
その負荷は、
大きければ大きいほど、
強靭な対抗力を
つけることができるわけであるからして。
(と、考えるように、私はしたのである。)



と、いうわけで。

生きるとは
「力を蓄え続けること」
「トレーニングを積み重ねていくこと」
と、すると、
場合によっては、
「ゴール地点」とか、
「完成」とか「完璧」とか、
そういう「『点』を目指す」概念は
むしろ邪魔になりかねないな?

なんて、
私は感じ始めている、
という話でありました。


更にまとめると。

――私の場合は、
「ゴール地点」の「点」を集めて描く
「点描画」ではなくて。

どこまでも
「線」を描いて、
それでどこまでも、どこまでも、
自分を描き続ける、
そっちのほうがあっているように思う。

と、いう、
それだけの話、とも言えます。




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