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「告げ口文化」を盛り立てよう(笑)

人は何故、「告げ口」を、どこか「悪いこと」のように思うのだろう??
――昔から、私には不思議で仕方がなかった。

いじめ然り、パワハラ然り。

先生や上司に、その「悪事」を「言いつける」のを、何故かためらうのである。
――何故だ???

実際、私も、「言いつける」行為には、昔からどこか「後ろめたい」ような気持ちがあった。

けれども。

悪事を目の前にして、誰にも「言いつけない」ことのほうが、本来、余程問題があるし「後ろめたいこと」のはずなのだが??

――うーん?!?!
(自分自身のことも含めて、その「心理」が、いまいちよく掴めないので。)


(暫し考えてみた。)


(その結果、思うに、)
人は人との間に「守り合い助け合い」みたいな仲間意識が、元から備わってあるのかもしれない。
――つまりは、「本能的に」「ツルみたがる」ということだ。

で、その仲間集団をそっと抜け出して「言いつける」みたいな行為は、その本能の部分で、(自他共に)「裏切り」に感じられてしまう、ということなのかもしれない。

――でもそれって、なあ?
「仲間外れにされる」あるいは「いじめを受けている」人間をどこか、「生贄」として捧げて、自分達だけ助かろう、みたいな意識だともとれるわけである。


(という、ここまでの話は、あくまで「仮定」でしかないんだけれど。)



(でもこの「仮定」に基づいて、話を進めていくとするなら。)



でも、よくよくよ~く、考えてみれば。

「生贄」を仲間内で作り出す、ということはだ、次は自分自身がその「生贄」として選ばれる可能性だってあるはずじゃないか?

「自分だけは絶対大丈夫」と「どこまでも楽天的に」考えられる人なら、それでもいいのかもしれないけど?
――でも、多くの人は「不安を抱えがち」だからこそ、その性質から「仲間意識」を強めたがるわけだもんね??

そしてそれは、「次の生贄」を探し出すために、どこか「相互監視」を強めていく感じにもつながりかねない、というか。


――うーん。
それはもう、「人の習性」として、つい、短絡的に、「目先の安全」を求めてしまうその結果なのかもしれないけれど。

しかし、長い目で見れば、または、よくよくちゃんと考えてみれば、本当にそこには、「生贄」なんてものが、そもそも必要なんだろうか??と気づく部分もあるはずだ。
(人間には「そこまで熟慮する」力もまた、備わっているはずだ、と、私は思うのだが。)



最近私は思うんだけれど、この「見て見ぬふりして黙り込む」文化が、諸々の「元凶」という気がしてならないのである。

――そこにはやはり、それをうまーく利用してのさばる輩も、発生するわけで。(概してロクでもないんだ、これが。笑)
(大雑把に言えばこれは、どうしても少数になりがちな「正しいことを言う人々」の普通のトーンの声ではなくて、「声の大きい人」とか「うまいことをまくし立てる人」の声ばかりが、広く通って響き渡る、そしてそいつらが幅を利かせる世の中になっていく、ということですかね。)


でもなあ。

「いけない」と思うことは「いけない」と言えばいいし、「おかしい」と思うことは「おかしい」と言えばいい。

何で、そんなことに「遠慮」「顔色窺い」をしないといけないのか。
これこそ「みんなで言えば怖くない」ってやつじゃない??

――そう、そのスタート時だけ、「同調圧力」に逆らう力が必要だから、ちょっと大変だと思うんだけど。
でもみんなが「いけないこと」「おかしいこと」を、もっとベラベラと、躊躇することなく容易く口にすれば、その「同調」つまり「全体」の方向性だって、変わってくるわけでしょう??

いや、これまでの自分も、性格的に「言わない」「黙る」タイプだったと思うんだけど。

もうさ、逆に「既にこんなになっちゃっている世の中」だからこそ、恐れるものなんて、そんなになくないです?

別に私自身は、最低限生きていければいいので(笑)、でも、どうせ生きるなら、何もなくていいから、ただただ清々しくスッキリさせて、「汚い部屋」ではなく、「片付いた部屋」で、生きていきたいわけです。

そう、みんなで風通しよく、清々しく生きていきませんか?――なんてことを思う。

「沈黙」は、風通しがやはり悪い。
そういう「閉口する風潮・傾向」の社会には、カビも生えやすい。
(つまり「カビみたいな奴ら」が、発生し、はびこりやすいのである。)

そろそろ、みんなも、「風通しの良い」世界を、望んでいるところなんじゃないかなあ?

この社会に自体に、「社会の気持ち」みたいなのがあるとして。
もう、何か、
「わざわざ陰になる部分を自分達で作り出してジメジメしている」
そんなのって、いい加減、イヤじゃないですか?

(と、私は思っているのだが??)