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昔、パワハラ上司ありけり。-負の循環から自分は抜け出す-

昔、パワハラ上司ありけり。

そのパワハラ上司、
いちいち底意地悪いわ、機嫌悪いと当たり散らすわ、自分の失敗を部下にしらっと押し付けるわ、ベラベラベラベラ口ばかり動くが手が動かない(つまり仕事していない)挙句その分の仕事をまた人に押し付けるわ、まるきり机まわりの整理整頓が驚異的にできなくて自分が失くした書類を人に探させるわ(こっちは忙しくて目が回りそうだというのに!サービス残業毎日毎日何時間させられていると思ってんだよ!)、説教に見せかけて頻繁に人を会議室に1時間も2時間も閉じ込めては、中身も意味もない繰り返し問答と演説を始めるわ(だからもう!こっちは忙しくて目も……以下略)、つまり狂っているわ、
等々。

――察しの良いnote読者の皆様なら、もう感づいたかと思いますが。
その下に、部下として、かつて自分ありけり、だったのです。(笑)

余計なことも混ぜちゃったからわかりにくくなってしまいましたが、(ここに挙げなかった事例も含めて)証拠揃えて訴えれば、絶っっっ対裁判勝てそうな、そんな「意地悪」「パワハラ案件」数知れずで。

それにしても。
人に対してある種のそういう「暴力的なこと」をし続けられる人というのは、きっと、その人自身もそれまでに何かしらのそういう「暴力的な」目にあってきて、あるいは今現在もあい続けていて――もちろん「暴力」のその形は様々で、それが繰り広げられている場もいろいろで、仕事上かもしれないし家庭かもしれないしそれ以外の人間関係のこともあるし――いずれにしてもそんな「憂さ」を、その人もまた胸の中に抱え込み続けてきた可能性もあるのかもしれないなあ、とは思う。
(だって、もしそうでないとするなら、生まれもってこんなに「暴力的」だったということになるが、……いや~、さすがにそれはないでしょう?笑)

そして、そういう人は大抵、その「憂さ」を自分の内側だけに抱え続けてはいられずに、絶えず「憂さ晴らし」できる相手を、一言で言えば「捌け口」を、「探している」ところがある。――そう、誰彼構わず相手選ばず、ではないのである。
絶対、相手を「選んでいる」のである。
で、
私はそれに「選ばれてしまった」のでしょう。
――無論、私が選ばれたその要素は「非」だったわけではないから、選ばれた自分を責めるつもりは毛頭ない。――が、当時の自分は、「選ばれやすいタイプ」「格好の標的」だったろうなあ、とは思う。(で、今現在はそんな自分も変わりましたけどね。笑)

当時の自分も自分で、自分に落ち度がないのであれば、「パワハラされています」と、その人より上の人に言ってしまえばよかったのかもしれない。もっと騒げばよかったのかもしれない。――たぶん、相談に乗ってくれそうな方々はいたよな?と。

怒ったり悲しんだり、悔しい思いをしたり、自分の胸の内だけに抱え込み悶々としたり、……するのではなく。
ただただ、毅然とした態度で「対処」することが肝要だったのかも?とは、今にしてみれば思ったりする。
とはいえ、そういう「対処」のために「行動を起こす」ことは、まあ、躊躇われるものではある。――そのうち時が自然と解決してくれないか、とか、助けを求められたほうもこれはさすがに困るだろうなあ、とか、そういうふうに考えがちで、「具体的な行動」は、なかなか起こしにくいものだ。
しかし、「対処する」とは、「具体的に行動を起こす」ことであり、それをしなければ、「対処」にはならないものだ。
「具体的に行動を起こす」以上、自分にも、責任(事実を明らかにし、第三者に説明するなど)とある種の覚悟(その相手と「対峙する」ことなど)が必要になる。――「そんなの理不尽じゃないか、何で私がそこまで?」と逃げていては、どうにもならない。自分の「不運」を一度は「受け止める」しかない。(あるいはもうこれは、この世の半分は実は既に「理不尽」や「間違い」に侵されてできていると割り切って「立ち向かう」しかない。)
――とはいえ、まあ、結局その勤め先は辞めてしまったから「今なら」そう思える、というのもこれはあるのだけれど。(「どうせ辞めるんだったらそうしてもよかったかな?」ということですかね。)
思い返すに当時は、「そんなことをしたら、解決するどころかもっとパワハラが酷くなる可能性もあるなあ、それは困る。」と自分は思っていたから、そういう行動に踏み切れなかったのだが。――抱えている仕事量がいっぱいいっぱいで、それ以上少しでもトラブルが膨らむと、時間・物理的にも精神的にもパンクしてしまう、と、当時の自分は思ったのである。

でも、もし、自分がその勤め先をどうしても辞めたくなかったなら、やはり「対処」をしないといけなかった事例だっただろう。
何故なら、その「暴力的なもの」は、少なくとも自分にとっては「異常なもの」であったわけだし、ならば「その暴力的な場所」から自分は、「抜け出よう」としてよかったはずだからである。
(その時の私にとって、そもそもその勤め先はどうしても居続けたいわけでもなかったので、まあ、辞める方向に「手っ取り早く」進んでしまったのであるし、辞めたそのことについては、今現在後悔はまったくしていないのであるが。)

さて、そして。

そうやって「自分の持つ憂さとは元々は関係のない人」を使って憂さを晴らしている時点で、そのパワハラ上司は、いつまでもその世界をグルグル繰り返すのだろうなあ、――と、今ならなんとなく想像出来たりする。
つまり、そういう「循環」に、その人自身が乗ってしまっている気がするのである。

それは、
「何らかのものからストレスを受けては、それとはまったく関係のない所、見つけた『格好の捌け口』へと、その溜まった憂さを吐き出し続ける」
という「循環」である。
――そしてそのまま、安直にストレスをそうして処理しているその「循環」が、その人にとっての「依存」や「中毒」のようになり、いずれ断ち切ろうなどとも考えることすらなく、そこから抜け出せないままずーっといくのだろうなあ、と。
――誰かの恨みや憎しみや呪いをもらい続けながら、あるいは、場合によっては「外野にいる人々」からさえも疎まれたり蔑まれたり避けられたりするようになりながら、ずーーーっと。


しかし。
そんな負のサイクルには、こちらは「巻き込まれてはいけない」のだ。
(今ならそれに気づける。)

「あなたは勝手にそうしていてください。でも、そんなの私は一切お断りですから。」
という、気持ちを自分で持たねばならない。

「抜け出よう」という、その「意志」を持つ。

グルグルと「リレー」されている、そんな「暴力的なもの」の循環から、自分はイヤなのであれば、ひょいと、抜け出るイメージで。
いや、「こちとら被害者の立場」って場合でも、その「暴力的な循環」の中に、理不尽ながら「被害者として」組み込まれているその事実にかわりはない。
――それは、自分もまた、恨みや憎しみを自分の中に発生させて「そいつ」に送ってしまって「巡らせている」、環をそうして「回している」、つまり不本意であろうが結局その循環の「動力」の一部になってしまっているわけのである。


そもそも「恨むこと」「憎むこと」は、精神的に消耗こそすれども、その行為自体は、何かを解消・解決も、心をスッキリとも、させてくれやしない。――ヘタすれば「憂さ晴らし」よりも「晴れない(晴れた気にもなれない)」分、もっと悪いものかもしれない。
最高に悪いものを、「被害を受けながら」発生させているというのでは、そんなのどこまでいっても自分自身が救われないではないか。

「理不尽なこと」「間違っていること」が割と多分に含まれている。――それがこの「現実世界」だ。
「受け入れる」必要はない。が、一度「受け止める」必要はあるのだと思う。
つまりそれは、「理不尽なこと」「間違っていること」について、「理不尽である」「間違っている」と認識し、「非はないし明らかにただただついていなかった今回の現実」を、「そういう現実の中に運悪く組み込まれてしまった自分」を、まず一度は「受け止める」必要がある、ということである。――そうしないことには、「その現実」から抜け出すことができなくなる。「そんなのはおかしい」からといって、ずーっと「何も見たくない、考えたくない」となっていても、何も変わらない。



だから、ただただ「方法」を考えてみたいと思うのだ。

その「暴力的な循環」から、「ひょいと抜け出る」には、いろいろな方法があると思う。
「完全に自分の意識から除外して、心の外側のエリアでかわす・除ける」とかもあるし。
または、それが難しそうなら、いっそ、やはり人に訴えるのもいいかもしれない。
少なくとも、「そんなことされたら、私は黙っていませんよ?大騒ぎしますよ?」という、空気を発するだけでも違うはずだ。
(何故か当時の自分には、「誰かに助けを求める」という発想がなかった。それは「してはいけないこと」というおかしな感覚があった。あるいは「そんなのはうるさがられるだろうなあ」という遠慮。――だからこそ、「格好の餌食」になったんだと、今なら思います。)
(当時、私が受け続けているパワハラに気づいていた「上の人」は、実は周囲にいくらでもいたと思う。――しかし、何をされているのか、そもそも助けを求めている状態なのかを、「具体的に」「自分自身で」明言しないことには、なかなか誰も手を貸すことはできにくいものなのかもしれない――と、今ならそこまで考えられる。)

……という、これらは「理想論」かもしれない。(と、経験者は語る、です。笑)

でも「この人と同じ負の世界にはいたくないし、いなくていいはずだ」という意思――それは「ワガママ」とか「勝手」とは違う、「当然の権利」であるという意識――は、持っているだけで、相当違う気もする。

私はこの記事で「暴力的なものが嫌い」と書いたが。

そもそも暴力は、連鎖するから、なお厭なのである。
とにかく、今後の人生においては、「暴力の連鎖」から自分は、何としても、どんな手を使ってでも(笑)、いつでも抜け出た状態でいたいと思う。


(もしよろしければ、今回の内容に繋がっている部分もあると思うので、こちらの記事もどうぞ!)

(追記:辞める日が既に決まっていた頃、つまり最後のほうで知ったことでしたが、上の人に私の窮状を相談したり訴えたりしてくれていた方も数人いた、と聞きました。――その方々は、私の上司に当たる人ではない、つまり別に「見て見ぬフリ」していたからといって何も責任があるわけでもない上に、そういう行動をとることでリスクを背負い込む可能性もある立場の方々ばかりでした。中には後輩もおりました。――正直、それだけで、そういう人がいてくれたという事実だけで、私は救われました。今、ちょっとそのことを思い出しても、「ありがたい」という意味で涙が出ます。)