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限られた時間とエネルギーだから望むところに使いたいだけ

昨日の記事のこの記述について。

「この人(あるいは人々)の期待に応え続けたい、それが私の人生だから」というのも、ある種の幸せだと思うけれど。
(中略)
少なくとも、今のところの私自身には、「自分の期待より、この人の期待を尊重して生きていきたい」と思える人はいないし。
そもそもが、誰と出会おうとも、自分はそういう感じでは生きられない気がするなあ……。

これに、ちょっとだけ書き足すと。

「信じてついていける誰か」に、ひたすらついていけたなら、それはどんなにか幸せなことだろう、と、私は感じてもいるのである。

あるいは。
私も五十代目前であるので、「あとはこの人たち(それは漠然とした対象ではなく特定の人や集団)のために、残りの自分のエネルギーや時間を費やしていけたら本望」という生き方も、ある種、至上の幸せだとも思うのである。


最近の私には、そこまで強い「我(が)」みたいなものは、なくなってきたと思うので。(――これは「良くも悪くも」であろう。)

だから、すっかりと、上記のような、私心のない心境になれたなら、それはそれで「充実感」があるのだろうなあ、なんてことを、想像したりはする、ということである。


――が、しかし。

そういう一見「無心」なふうを装っていると(実際はまだその境地にも達してないのに、笑)、んまあ、そこに付け込んで「自分の利益のためだけに、他者をいいように利用してやれ」的な邪気を持つ人間に、どうしても出くわしてしまう。
(それは数としては少数だとしても、一度出くわせば十分である。笑)

そういう「エサの匂い」を嗅ぎつけて寄ってくる輩は、若干「害虫」的にも感じられてしまって、虫唾が走るというか、本当に、近くにいるだけでもイヤでイヤでしょうがなくなる。(笑)

と、いうわけで、シンプルに言えば、私は私で、そういう「邪まな人間」が大嫌いなものだから(笑)、そういう連中に「だけ」は、私の限られたエネルギーや時間を、「不本意」に「盗まれたくない」、というだけなのである。

とはいえ、パッと見、即時出会いがしらにはそういうのって「見分けがつかない」ので、すると、

そもそもが、誰と出会おうとも、自分はそういう感じでは生きられない気がするなあ……。

というような、ある意味、「警戒心」とか、「孤立癖」とかも、生じやすくなるのだろうなあ。

(ちなみに、別に「正当な約束に基づいた範囲内で利用される」のであれば、相手がどんな人間性であろうと、それを私はそこまで気にしないタイプでもある。)



そうだなあ。

漠然と「世のため人のため」だったら別に、自分の時間もエネルギーも、注いだって、嫌な気もしないし、損した気にもならないんだけど。

というか。

「邪まな連中」に使われるくらいなら、全部、自分の時間もエネルギーも、世のため人のためのそっちに捧げるほうが、よっぽど気持ちいいわけだしね。(笑)


でも、「奉仕の精神」みたいなものを前面に出して、「自分」というものを消し去ってみると、どうも、どうしても、前述の「邪まな害虫的輩ども」が、寄って来てしまうので。(笑)

やはり、まだまだ、「自分の時間とエネルギーは、自分で選んだところに使おう」という、そういった「自意識」の「防虫剤」は、捨てないほうがいいのだろうな?と、私は思うのである。
(ちなみに、この記事のタイトル、始めは「自意識の防虫剤」と付けました。
が、記事内容がタイトルから想像しにくいので、自ら却下しました。笑)

つまり「自分本位」(言い換えれば「自分勝手」)だとしても。
その自分に与えられている時間や力を、「善いと思えること」や「清々しく感じられること」に向けて、「自分でちゃんと判断し選んで」、使っていけばいい、という、――肝要なのは、ただそれだけのことなのでは?と。


「善いこと」とは?「清々しいこと」とは?

そこらへんの選択についてはそろそろ、自分の価値観や感覚を、ある程度は、信じてあげてもいいのでは?なんてことも思っている。


とにかく。

自らに一回だけ(だと思っておく)与えられた、この「エネルギー」と、「現世での時間」は、絶対「ムダ」なこと(つまり「害虫のエサになる」とか)には、使いたくはないのである。