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「怒り」を「リレー方式」にするのが嫌だ
子供の頃、親に怒られた時に。
「この説教の内容は確かに正しいのだが。
……でも絶対これ、溜まっているイライラを晴らすためのその『八つ当たり』に、この叱責行為を利用しているよな?」
なんて感じたこと、ありませんか?(笑)
で。
言われた内容は「ごもっとも」だとしても、そうなると、「何かムカつく」もので、「素直に従う気になれない」モヤモヤを生み出したりして。
(何も良い方向へ進展していないの図の完成。)
「関係ない別の所で発生した怒り」の、その「憂さ晴らし」を、「説教」や「叱責」という形を「利用」して、つまり「正しいこと」を隠れ蓑にして、やってしまう。
これ、家族関係ならまだ「お互い様」な部分があったりするだろうからマシかも?と思うんだけど。
でも実は、似たような事例って、大人になった大人同士の「社会」の中においても、さりげなく、でも結構な数、ある気がする。
――他人同士のこれは、「負」の重たく濁った空気の、さながら発生装置である。
例えば、SNS上然り。会社の上司と部下然り。
「顔の見えない、または現実に顔を合わせることない関係性」とか。
現実生活の中でなら、「立場・役職や歳が自分より下」とか、「気がやさしそうで許してくれそうな性格の人」とか。
そういう「より拡張した怒りをぶつけやすい相手」に対しては、怒りを、それまでに別の所で蓄積させている「怒りエネルギー」分も「足して」ぶつけてやしないか?(無意識にやっていることも含めて。)
なんて思うわけです。
で、こういうのって、「仕方ない」と扱われがちなんだけど。
自分はこれ、「すごく嫌なことだなあ」、と、この度、思い始めているわけです。
とはいえ、感情の中でも「怒り」は特に、放っておいてもなかなか、水のように蒸発してくれたり、少なくともスッキリと雲散霧消してくれたりはしない。
なので、――こういう「怒りのリレー」にしないためにも。
何かや誰かに「ムッ」と来たら、保留して溜め込まず、なるべく間髪入れず、その場で、「その相手にそのまま」それを表したり、反応を示したりするようにできたらいいなあ。
(ってこれは別に、「その都度、感情を露わにして激怒しよう」ということではない。「怒り」とその内容を、その相手に解るように伝える、ということである。――でも、感情を爆発などさせずとも、これができるだけで、相当スッキリするとは思うのだよなあ。)
……なんて「理想論」語りつつ、まあ、これは相当、難度の高いことだとも思いますけど。(「お人好し」の「仮面」を、なかなか外せない自分!笑)
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でも、「怒りのエネルギー」を、うっかり「リレー方式」にしてしまわないという意識――「怒りを関係ない誰かに渡さない、垂れ流さないようにしよう!」というのは、せめて心がけてはいきたいなあ、と思う。
まずは意識することこそが、大事!
――相当強く意識しておかないとやはり、つい、知らず気づかずのうちに、これ、やりがちだと思うから。
(私なんかは、歳も取ってきて、周囲に自分より年下の人が増えてくると特に、ね。笑)
いや、でも、「間接的」であっても、そういう「心がけ」こそが、いい「対人関係」「人の輪」を広げていくことになる気がするし。
あるいは、周囲にいる人にも「いい空気」を発生させるようになると思うので。
(どうしたって、個人が発するものだとしても、「空気」は共有し伝播してしまうものだから。)
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