インプットしたらアウトプット!
本日の極論。(笑)
知識や記憶は「蓄積する」ものでもあるけれど、「流れている」「動いていく」ものでもあると思う。
「知識とは人から人へ伝えられていくものだ」という意味でももちろん「流れている」「動いていく」なのだけど、それだけの意味ではなくて。
個人の中でも、「動いている」「流れている」のがそもそも自然な形なのではないか、――と、私は感じるという話なのである。
一例として、知識も記憶も、頭の中に入った以上、そこに多かれ少なかれ「自分の考え」も添加されてしまうのは避けられないものだ。
何かそうして「元のかたちとは少し変化もしていってしまう」ものなのであれば、その時点で、「流れ」と「動き」がそこに否が応でも存在してしまうものだとも思える。
ならば、そうなってしまうそれは、「同じところ」――この場合だったら、「自分の頭や心の中」になると思うが――そこに留めたままにしておかないで、外の空気や光に当て「動きを与える」ということもしていったほうがいいように、私には感じられる。
例えば勉強なんかも、自分の中に蓄積させたものを「人に教える」という作業をしてアウトプットしてみると、驚くほど自分自身の身に着いたりもする。――たぶんそれは「動き出している」からなのだと思う。
「さあ、すべての記憶と知識を、人に伝えていきましょう!外にも出していきましょう!」といってもそれはさすがに無理があるかもしれないが、しかし、少し意識的に、少しでも「そうしようとしてみる」のは、決して悪いことではない気が、私はしている。
「知識」も「記憶」も、「生き物」である。
と、考えてしまうのは、これまた論理の飛躍であろうか。
――単に個人的にそう思っているだけのことなので、遠慮なく更に飛躍させてしまえば。(笑)
私は、自分の頭の中にある「知識」も「記憶」も、絶えず「呼吸」しているような気がしてならないのである。
もう心の深海の底に沈んで、そこで静かに息づいているものもある。
しかし、「心の外側の新鮮な空気を欲している」ものも、たくさん「棲息」している気がする。
人の「考え」というものは、「知識」や「記憶」が、変形してできたものともいえる。
「考えごと」とは、あるいは胸の内に抱え込んでいないで、誰かにただ話してしまうだけでも、よいものである。(そこで適切なアドバイス等がもらえなくても。――場合によっては、それを求めているわけではないことも多いでしょう?「聞いてもらうだけでいい」みたいな。笑)
「考え」こそ、盛んに呼吸をしている「知識」「記憶」の最たるものではないだろうか。
さあ、そこでこのnoteである。
(noteの宣伝か?!笑)
いや、でも、ここで胸や頭のうちに溜まっていた「考え」を書き出して「外の空気に当てる」だけで、――あら不思議、「動き出す」「生きている」感じが、すごくするのである。(ありがたいことです。)
やはり、「記憶」も「知識」も、そして「考え」も、「生き物」であるからして。
「心や頭の中の部屋」に――自分の場合は特に、そこが「狭い」ので――閉じ込めておくのは、なんというか、「かわいそう」に感じるのである。