「いじめ」「パワハラ」について考えること
この台詞は、私がかつてこちらの小説に書いた、ある登場人物の台詞なのであるが。
で、この台詞、すっかりそのまま、「私個人の意見」でもある。
いや、もう少し正直なところを書き足せば、私にだって人に対する「意地悪な気持ち」自体が、胸の内に芽生えることくらいはきっとこれまでにあった。
しかし、それを実際に「虐め」だの「ハラスメント行為」だのに、そのまんま移行させたりは絶対しない。
――「そういう気持ちを行動として表面に出すこと」が、人として、みっともなく、醜いことだと、わかっているし、自分自身、そういう人間が大嫌いだからである。
というか、それ以前に、「殴ってやりたいから殴ってみた」が良いわけないように、「虐めたくなったから、虐めてみた」が、許されるわけがないから、ということでもあるけど。
「いけないこと」と解っていながら、自分でその行動のブレーキがどうしてもかけられない人間は、やはり、シンプルに、「病気」だと思う。
(で、あんまりそんなケースはないと思うが、もし「いけないことなのに、それが本当にわからない」のだとしたら、よっぽど「非常識」で、且つ「人間として要・再教育」ということである。)
「いけないと解っているのに、それをやめられない人は、病気」
と、考えると、割と対処の仕方も変わってくるかもしれない。
もうずいぶん前の話になるが、(で、その話はここでも一度、記事としてとりあげたが、)例えばかつて私に明らかに「パワハラ」をしてきた人間というのは、周囲にはうまく「叱責」「指導」に見せかけようとしていた様子はあったけれど。
しかし「叱責・指導」と、「悪意・意地悪」の違いは、私自身はもちろん、周囲の人にだってわかるものだった。
――そこには「グレーゾーン」なんてものは、ないのではないだろうか。
それは、「やられている本人」が厭だと感じたら、その行為を「拒む」、そのために「対処する」権利は当然ある、(と、私は考える)ということである。
(そこに悪意のない「叱責」「指導」は、受け手にはわかるものだと思うし、そこは「自分の感覚」とその判断を、信じていいというか、基準にして全く問題ないはずだと思う。)
いや、昨夜久しぶりに、「叱られた」夢を見たのである。
(そう、実生活では歳も食ってきたので、「注意」はされても「叱咤」はあまりされることももうないんですよね。)
――でもそれが、人間として好きな尊敬する人からのものだったので。
(現実生活上ではもうなかなか直接お目にかかることはない人なんですけどね。)
(どこか発破をかけるような、明るい叱られ方の夢だったので、ハッピーな内容でした。)
「そうなんだよなあ、「純粋なお叱り」なら、むしろどこか、それは微かにではあるけれど、芯に「叱られてうれしい」ような気持ちがあるものなんだよなあ。」
なんてことを思い出したので、ちょっとそんなことを書き残してみたくなった次第である。