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「人間」だけが自分を取って食おうとする?

いや~、動物も植物も、人間以外の生物は概して、見ているだけでも、つまりそこに存在するだけでも、私に「癒し」を与えてくれるというのに。

どうしてなのだ??
「人間だけ」が、何故そこから除外されるのか?――同じ生物のはずなのに。

と、考えてみたのだが。


「自分を危険に晒す可能性のある生物」には、そりゃあ、癒されないわな、ということだ。

「概して人間以外の生物は」と冒頭で書いたけど、しかし、檻も逃げられる場所もなく、何か車などに乗っているわけでもない状態で、サバンナの草原の真ん中にて、肉食獣に遭遇したら?
――その場合、「見ているだけで癒される」となるわけはないのであるからして。(笑)


そう考えると、「同じ生物なのに、人には癒されることがあまりない」と感じる私は、人に対して「取って喰われるのではないか」つまり「自分の外敵になり得るのではないか」という、そんな意識が強いのだろうなあ。

まあ、実際、「知らぬうちに抜き取る」とか「素知らぬ顔で騙す」「欲を満たすのに他者を無断で利用する」とかができるのは、人間だけだし。

そして、「人を呪う」をしてしまうのもまた、人間だけだし。
――たとえば、他人に対して酷いことを意図的にできる人間は、どこかで「人というものを呪っている」のだと私は思う。――無意識に「人として、人への仕返し」をしているのだと思う。

それなら「サイコパス」のほうが――「人の気持ちが全く想像できない、わからない人」のほうが、まだマシかもしれない。

「人というものを呪っている人間」。
――彼らは、弱者や少数者を踏みつけにしたり、除け者にしたりすることについて、「無関心」とか「無感覚」「無神経」とかですらなく。
もしかすると、そこに「人として生きる悦び」すら感じているのではないだろうか、なんていうふうに、思うこともある。

そしてそういう、対人関係における「意図的なもの」「意識してそうするもの」というのは、(善いものも悪いものも)無意識のもの以上に、また人から人へと、ウイルスのように、極めて伝播してきやすいものでもあると私は思うのである。
――そこには、「誰かにこれが伝われ」という「念」が、どこかしらに介在しているものだと思うからである。

(と、これについて書き出すと長くなるから、それはまた別の機会に。)

(話を戻します。)


サバンナで遭遇する肉食獣のほうが、まだシンプルでいい……とはさすがに思わないけど(「喰われて即死」と隣り合わせですからね、笑)、でも「裏でコッソリ」みたいな、「知らぬ間に毒を盛る」みたいな、人間だけがやらかすそんな「裏切り」や「小賢しさ」が、やっぱり自分は、虫唾が走るほど嫌いなんだろうなあ。

――うん、まあいつぞやに「人というものに対して期待をするから裏切られたような気になるのか」と気づいたので、期待というものは(悲しい哉、笑)、よほど知っている相手(ごくごく少数です。笑)ではない限り、しなくなった。
だから、例えば、他者の、ただの無神経とか鈍感とか、あるいは無関心とか、そういうものは気にならなくなった。――つまり「自分ばっかり気を配っているみたいで損だ」とか「何て思いやりというものがないんだろう」とか、そんなことで、「そこに悪意のない人」を憎んだり悪く思うというのも、今は、ほとんどなくったと思う。

しかし、――というか、「その分」、という言い方のほうになるのかもしれないが、――人の「悪意」みたいなものは、一切、「受け付けない」し「見過ごせない」になってしまった。

「コッソリ本人にはわからないように」だったら、踏みつけられても、人は平気なものなのだろうか?

――うーん、そういう「意図的に踏みつける」人もいる中で、それでは何だか、踏まれる側は、延々と踏まれ続けることになる気がするのだが??

(最もわかりやすい一例としては、この国の「政治」である。)
(コッソリコソコソ、どれだけ私達から「搾取」し続けるつもりなんだろう? で、なんでそれを平然と、多くの報道機関は見過ごし続けているんだろう??なんてことを、頓に感じる昨今である。)
(で、「公的」な風潮がそうなら、「私的」なやりとりの中でも、そういう空気は蔓延し出すものだよなあ、と感じている……という、これについても、書き始めると長くなるので、またの機会に。)

(話を戻して、)

私はやはり、「踏みつけられ続ける」のはイヤなので、そうなると自ずと、「人に期待しない」更には「人を信じ切ってはいけない」(とはいえこれはまた、根拠もなくいきなり疑い出すということではないし、信じることは信じる……のだが、しかし所謂「妄信」はしない、ということであろう)に、感覚の照準が合わされてしまう。
――そう、これはなかなか、「さみしい」「かなしい」ことだという自覚はあるのだけれど。

「一番守るべきものを守るため」に、これは致し方ないことなのかもな?なんていうふうにも感じている。

(……って、おいおい!今日の記事は最後までネガティブかよ!笑)

でも「誰一人も信じられない」ではないだけ、――うん、それだけで、相当幸せなことだとも、改めて思っている。

むしろ数少ないからこそ、「信じられる人」の存在が、ありがたくて仕方ない。
――言い換えれば、その「ありがたみ」の総量というものには、「そういう人が多ければ多いほど」というような、人数の多寡は関係ない、と、私は思っている、というところもあるのである。

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