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自分にしか聞こえない自分の声は、誰が聞く?

損得ではなくて。

というか、
「損したっていいから、」
やりたいことをやりたいし、したいようにしたい。

「長い目で見て」の損得はそもそも、
今の時「点」で考えていたって、
あんまりどうにもならなかった、何だか。
(これまでの経験上。笑)

何についてでも、自分がそれを、
損だと思ってしまえばただの損になってしまうし、でも、
「ただの損にはしない」と思えば、
「ただの損」にはならない。

損得って、そんなものかもしれないな、と、ふと思う。
元を辿れば、感じる損得なんて
ただの「個人のその時の価値観」でしかないし。
そしてまた、「人によって」且つ「その時どきで」、
損得の基準なんて、本当はバラけるはずでもある。
そう考えると、
損得なんて「後付け」で、
本当はその手前にただの「現実」「事実」があるだけなのだ。

だからこそ、世間とか他人の基準でなら尚更、
「自分の」損得考えても、仕方ないわけでもあるのだが。

――しかし、何故だろう、つい、
自分の「外側の世界」に、
自分のその感覚の基準を探したがることもまた意外と多い。
(自分にもそういうトコロがとてもある。笑)

と、そんなことに、
ごちゃごちゃと、囚われても仕方ない気がふとしたのである。


「今、こう生きたいのだ!」
っていうこの気持ちは
潰し続けていたら、そのうち消えてしまうかもしれない。

いや、潰し続けててしまっていても、
次の「何か」が必ず湧いてくるというのなら、いいのだけれど。

しかし多分、「自分で自分の気持ちを潰す」を習慣にしていると、
もう「こうしたい!」って気持ちも、そのうち湧いてこなくなる気もする。

(これも経験上。笑)
「こうしたい!」なんて心が動くことは、
人生を明るく進んでいける格好の「原動力」なのに。

また、「潰された」っていう「恨み」は、
案外そのまま残るものなのである。
――その「恨み」は、「自分で自分に対して」だって残るのだ。

そして、それが巡り巡って、
他人の「やりたい」を潰しにかかる、みたいになったりもする。
「お前だけ好きにはさせねーぞ」みたいな、例えばそんな感情である。
(そういうのって、誰も幸せにならないんだよな。)

「損得」が本来「自分基準」のものなら、
「自分の価値観」なんて必ず
年月の経過とともに変化してくる部分は、必ず何かしら出てくるわけで。

だから、例えば「損得」なんか無視してでも、
自分で自分の「今、やりたいこと・したいこと」を
もっと尊重してあげたいのだ。


もちろんそれは、
「条件は限られている中で」の、「今自分はこう生きたい!」である。

生きていて、条件が何も限られてない人なんていない。

例えば、「何でも思い通り」に、仮に一旦はなったとしても、
また更なる「こういう条件ならもっといいのに」が
次々湧いて出てくるのが人間というものだ。
――人間のその欲望とは、尽きせぬものだから。

また、条件に付いて、
比較的「恵まれている」「恵まれていない」ってのはそりゃあるけれど、
でもそれは、「比較的」である事に着目したい。
つまり、どこの誰と比較しているかによってそれは変わるのだ。
個人単位が感じ得るその「恵まれている度合い」なんてのは、
「感覚的」で「流動的」なものでしかないのだ。



もしかしたら
「自分はこう生きたいのにできない!」
というある種の「鬱屈」は
人として生きる「手応え」なのかもしれない。

「人の欲」を一切断ち切って、
無欲になっちゃえばラクなんでしょうけど
それじゃあ、花や小鳥たちと一緒になっちゃう。
――え? それ、結構よくないですか?
という声も聞こえてきそうだし、実は私もそう思うが(笑)、
でもまあ、そういうのは、
「次回」「生まれ変わってから」でも、十分間に合うと思う。(笑)


「人」として、生きる手応えとは。

ー『死にたい』は、『生きたい』である。ー
とおっしゃる方は何人かいらっしゃって、
(一番初めにおっしゃったのがどなたなのかは判らなかった。)
それはとても腑に落ちる言葉で。

「自分はこうでありたい」「私はこうでなきゃいけない」を
全て捨てられるなら、
つまり「最低限生きるだけ」のただの生命体でいいなら、
「死にたい」という感情はわかないと思う。

つまり、ただの生物としてではなく、人として、
「あきらめられない」「ゆずれない」何かがあるから、
「死にたい」になる。

――「死にたい」という感情は、そこに位置しているのだろう、
と、私は思う。

「人として生きたい」だから「死にたい」になる
というのを、極端な例と感じる方もいらっしゃるかもしれない。
でも「死にたい」というほどではなくても、
鬱屈した気持ちになるのもまた、
「仕組み」は同じなのではないかなあ、と思う。

何故なら。

・嫌な人や事物からとにかく逃げ続ける
・最低限の水と栄養、眠る場所は確保する

この二つだけを優先することは、
やろうと思えばほとんどの人が
実際はできるはず……なのにできないのだとしたら
それは「他にもこうありたいと望むことがあるから」なのだと思うから。
つまりそれは「人として生きている」からだろう。

それが「人として生きる」ということなのだろう。

だからこそ、
「思い通りにならない!」という「鬱屈」は
「人として」生きている証である、と言えると思うのだ。

――但し、である。
「鬱屈」というものに、「生きる」自体が支配されてしまっては、
本末転倒なのだとも思うのだ。

「こうしたい!」がある限り、
「思い通りにならない鬱屈」にはぶつかるものだが、
それを「そういうものだ」と、
でも「いざとなれば手離せばいい」と、
自分を自分で俯瞰で見る視点もあるといいのかもしれません。


はじめに戻るが。

「損したっていいから、」
やりたいことをやりたいし、したいようにしたい。

自分の心が折れてしまうくらいなら、
「人として」と自分で思い込んでいるその部分も
全部手離してしまうのもいいかもしれない。
つまり、その場合には、
「やりたいこと」「したいようにすること」となるのは
多分、「すべてを手離す」ことなんだと思う。

或いは、目先の「自分の頭の中で決めつけている」損得が
人を「鬱屈」に追い込む場合もあるかもなあ、ともまた思う。

「今こうしたい」は、「今だけこうしたい」とは、少し違うと思うのだ。
「やりたくてやること」つまり
小手先の計算とか損得の理屈とかでない「今こうしたい」ならば、
(たとえそれが結果的に今だけになったとしても、)
その人の「人生」の上に、言うなれば生きている限り、
ちゃんと「意味あるもの」「自分で選んだもの」として
乗っかり続けるんじゃないのかなあ?と感じている。

「損得の計算の欲」と
「気持ちが自然に動いた結果の欲」とを
見分けられる自分でありたい。

自分の「心の声」こそ、自分がしっかり聞くのだ。
何故ならそれは、無視し続けていると、
自分の声だというのに、聞こえなくなるからだ。
「この世の中で自分にしか聞こえない自分の声」であったとしても
――そうであるのにもかかわらず――それは聞こえなくなってしまうのだ。
結果、この世の誰一人、その声を、拾えなくなってしまうのだ。