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ここから先は自分で自分を育てるしかなくない?

「自分の親に対しては、人として、全くもって尊敬しかない」とか、「上司や先輩には、常にいつでも恵まれていた」とか、そういうの。

一言で言えば、「うらやましいことこの上ない」。(笑)

やはり、同じ「周囲の人に恵まれる」のでも、「自分より上の立場の人」に恵まれることって、幸運のうちでも、とりわけ大きなものの一つだと思う。


自分にもかつて若い頃、「上司や先輩に恵まれている」と感じられた、そんな時があった。
――その当時はそれを、ありがたいとはもちろん思っていたけど、人生のはじめのほうだったこともあって、「最高に恵まれていることなのだ!」とまで、つまり、今現在しみじみと身に染みて感じるくらいにまでは、思っていなかったかもしれない。
――それは、「大・幸運」だったんだよっ!――当時のお前は、恵まれていたよっ!!!
(その節は、数多のお導き、御厚情、ありがとうございました。)



でも、まあ。
我ながら、本当~に、不遜な言い方をしてしまえば。

もしかすると、私もそののち、「成長してしまった」のかもしれない。

例えば、いつの間にか。

親の、人間としての「アラ」が、探しているわけでもないのに、より、目につきやすくもなってきたし。(感謝はもちろんしているけれど!)

その後の職場では、上司の「思慮が浅い所」も、より、気づきやすくなってしまったのかもしれないし。

――そりゃあ、そうだよなあ。
私も、歳をとってきたのだもの。

そして、そんなこんなで、そろそろ。
「自分を育ててくれる存在」を、あるいは、「その人についていく」なんてやり方を、生活や職場を一にする「生身の人間」の中には、求めにくくなってもくる。

――それでも、断片的には、そのパーツを自ら拾いにいく形で、様々な方々から(そこには年下の方々も多分に含めて)、相変わらず「勉強」は、もちろん日々させてはいただいておりますが。(せざるを得ないところも多いですし。笑)

と、そんなふうに。
「教材は、自力で意識的に集めながら」、いつの間にかやっていくようにも、なってきた。


うーむ。

もはや、誰か特定の一人が、「指導役」をかって出てくれて、「自分を導いくれる」、なんてのは、もう期待できないだろうなあ、と。


こうなったら。

「自分で自分に、勉強させる」しかないだろう。
つまり「自分が自分を育てる」という視点を、改めて、よりしっかりと、意識的に、持ちにいくしかない、ということだ。
――いや~、我ながら、「自分が自分を育てる」なんて、思い上がっている感。(笑)

でも、そろそろ、そういう覚悟は、ある程度したほうが、むしろいい気がしてきたのである。
――「この歳になったら、誰も、導いてはくれないと思え」、と、いうことだ。
自分から「導かれに行く」。
もう、そういう時期なのであろう。



「この人が言うことは、すべて正しい」みたいなのは、盲信的で、危ないともわかってしまったし。

「この人みたいになりたい」というのも、(断片的にはよくても、)そっくりそのまま全コピーなんてちょっとおかしい、と、感じるようにもなってしまったし。

つまり、「誰かに、そのまま従ってついていく」ということが、最早できなくなってしまった自分だから。


でも。

まだまだ、人としての成長はしたい。
賢くなりたい。


「自分で自分に無駄に厳しい」みたいなのは、いらないと思うけど。

自分で自分に、期待は捨てない。
「自分を育てる視点」を、ここからは持とうと思う。



――自分の教育係は、今日から「自分」だ。