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「戦わない」

(昨日の記事の続きとして。)

「戦う」って、どうしても「同じ土俵に上がる」をしなければならないところもあって。

そうなると、(これは感覚としての話に終始してしまうけど、)戦うその相手と、「同類」にならざるを得ない場合も出てくると思うのだ。

――なので、そうはなりたくない相手とは、意識の上では「戦わない」のが吉なのだろうなあ、と。

「しかし黙って見過ごすこともできない」ことの全て、そこらへんについては。
「戦い」ではなくて、「事務処理」だと思って「片付ける」感覚でいくのは、どうだろう?


――そうそう、「事務処理」には、「感情」もいらないしね。

「感情」って、嫌なものも、うれしいものも、どちらもひっくるめて、どうしても「呼び合う」性質があると思うのだ。
(実際、怒りは怒りを呼ぶし、笑いは笑いを呼ぶし、そんな感じで。)

だから、「遠ざけたいもの」に対しては、自らの感情を出さない、その対応に感情を含めないのがいいのかもな?
と、私は気づいてしまったわけなのである。

――言うなれば、「感情」とは、自分の「分身」を外に向かって飛ばす行為に近いように思えるから、不用意に「ヤバい方向」に、自分のその「分身」は、飛ばさないに限る、ということである。



その「戦い」は、良い感情を呼ぶ「戦い」なのか。(そういうものも中にはある。)
それとも悪い感情を呼ぶ「戦い」なのか。

「悪い感情を呼びそう」と判断したなら、なるべくなら「戦う」感情は捨てて、それらはすべて、「対処」「始末」で扱っていこう。

と、そんなことを考えた、2023年のスタートなのであった。