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「書きたくなくなったらやめよう」という感覚のほうが
「もしも書きたくなくなったら、やめればいいや」くらいの感覚のほうが(これはnoteに限らず書くこと全般)、どこか肩の力も抜けるのか、書くことについて「自由」になるなあ、と、この頃感じるようになった。
「書くこと」について、そこに、意味がある(感じる)場合も、もちろんある。
が、しかし、そこに意味が見当たらない、感じられないからといって、それは所詮、私一人が、そこに「見出せる・見い出せない」の、その差でしかないわけである。
――そもそも、(それは「書くこと」に限定せず、)この世に存在する「意味」というもの、その全てを、私は知っているわけでもないし、その中には、永遠に私には届かない、つまり「理解」まで到達できないであろう「意味」だって、存在していると思うのだ。
あるいは。
「意味が見当たらない」ことでも。
(これもまた「書くこと」に限らず、)「やりたい」と思うことならそれだけで、「やる意味」は、そこにいずれ生じて、更には育っていくだろう、とも思えてくる。
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(これ以上近づくと逃げられそうなので近づけなかった。笑)
「限られた時間の中でやりくりしながら」で、ずっとここまで来ているから、「よりやりたいと自分で思えることから順番に」という習性は、もう既に身についている。
――「もう時間を無駄にできない、したくない」というのも、身に沁みて感じてきている。
だから、むしろ「意味」とか、狭い自分の頭の中だけで考えて立ち止まってばかりいても、仕方ないとも、これはいえるわけである。
「書きたいのか、書きたくないのか」
――だから、ただただ、それだけでいいのだと思う。
他の何を差し置いても、その時、書きたいのなら、書けばいい。
それがもし仮に、生きている限り続いていくのなら、続けていけばいい。
――ただただ、それだけのことなのだ。
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