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「私のしていること」は誰にも「真似」できない

まずは。
私の「誰でもできる」「誰にもできない」の感覚・判断は信用ならない。
という話からである。



これは前にも一度、記事にしたことなのだが。

時間を守る、出したもの(特に人目に晒したり紛失してはいけないもの)は片づける、忘れてはならないことはメモしておく、次の人が困らぬよう連絡や報告を残す、等々。

「これくらいのことは、やろうとすれば、誰にもできるはず」と、自分が思うことについて。
「そうでもないのかも?――これらのことについて、とてつもなくハードルが高い、という人もいるのかも?」という、それは結論だった。

「自分基準」から「他者を見る」という形の、――たとえば、「誰でもやる気さえあればできるはず」という感覚は、当てにならない、ということであった。


で。

その逆も然りなのではないか?と、ふと思ったのである。

「自分基準」から、今度は「自分自身を」評価することについて。


「誰にもできない」と、自分のやることについて、自分基準で思っていることもまた、疑ったほうがいいのかもしれない。


たとえば、私が書いているものとか?

――いや、まあ、「誰にでもできる」とまでは思わないけれど。
(正直に「謙遜抜き」で言いました。笑)
(だって「最も自分が得意とすること」なのだもの!これはアイデンティティーにもかかわるからね!笑)

しかし、「これくらいのペースで、これくらいの分量の、これくらいの内容を書ける人は、いくらでもいるのかもしれないな?」ということは、そろそろ、思い始めてはいるのである。(そんな今日このごろです。笑)

しかしである。

そう気づくことで、無下に、無暗に、わざわざ「自信を失う」こともない気も、同時にしている。


とにかく、「できること」「できないこと」の、その「程度」のところを、「人と比べる」というのは、あんまり意味がないことなのかもしれない、とも、私は思い始めている、ということだ。

「自分という人間は、自分にしか動かせない」という意味では。

大事なのは、「自分がやろうとしていることについて、自分なりには、どう最善を尽くすか」という、ただただ、それだけのことなのかもしれない。


そう考えてみると。

「こうなりたい」まではいいとしても。

「あの人のようになりたい」となると。

――多少なら、そういうのもいいとは思うのだが。
あんまりそこにばかり焦点を当てすぎると、「比較」という「基準が自分の外側に行く」ことにもなるから。
「自分ならではの最善の形」や「自分だからこそできる進み方」を、見落とすことにもなりがちではないだろうか。


あるいは。

先述した通り、「誰かとの比較」から自分自身で判断した、「私のすることは誰にもできない」は、まったく当てにならないとして。

しかし。
「私のすることは、誰にも『真似』できない」ということは、捉え方によっては、言い切ってもいいのかもしれない。


これはどういうことかと言うと。

それは、「私のすること・したこと」という限定があるからだ。
――「私のしたこと」は、あくまで「私のしたこと」であって、「誰かのしたこと」にそれが変わったりはしないのだ。


つまり。

それをすることによって「自分自身が、自分自身なりに」得られるもの――手応え然り、喜び然り、やりがい然り。

これは、間違いなく「私だけが受け取ったもの」である。
――「私だけが受け取ったもの」ならば、少なくとも、その部分については、「誰にも真似はできない」更に言えば「誰にもその代わりはできない」はずなのである。



他者との「比較」は、時に「虚しさ」を、すげなくあちらこちら「自他共に」呼んでしまう気もする。
(それは、自分より「うまくできる者」「うまくできない者」どちらとの比較においても、である。)


「比較」という(正しくそれが行われるために)「客観的基準がもてはやされる」その世界は、そっけなくて、どこか「冷淡」でもある。

「自分のできること」について、客観視だけでは(それが一切不要とはいわないが、それ「だけ」では、)、どこか、この世界は、つまらないのではないか。


無論、「主観」での「評価」は、危険をはらんでいる。
ただのつまらぬ「自己過信」(大雑把に言えば「うぬぼれ」)を生んだりもしがちだ。
(それでは、今後するべき「成長」も、止まってしまうかもしれない。)

しかし。

「私のすることは、私がすることなのだから、それだけでもう既に、他者の中には存在し得ない『真似のできないこと』なのだ。」

という感覚は、「過信」や「うぬぼれ」にはならないと思うから。

あるいは、そういう感覚なら、私は大切にしていきたい、と、思っているのである。