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「集団」より「個」を尊重したい

私が、「集団」より「個」を尊重したいと思う理由。

『「個々の気持ち」より「集団の意向」を「必ず」尊重する。』
という、これが「基本設定」になってしまうと、せっかく備わっていたはずの「一人の人間としての気力」が、削がれていってしまうと思うことがまずある。

もちろん、「私は自分ではなく誰かのためにこそがんばれるのだ」と感じる人もいるだろうし、別に私はそのこと自体には共感できるのだが。

然るに、「誰かのため」の場合のその「誰か」は、「自分の意思で」選択していないと、そもそもそういう「気力」は湧いてこないものではないだろうか。――つまり、始めの設定から「集団を優先して尊重する」になっている場合、「誰かのため」「人のため」の「誰か」の中には、不本意な人も混ざってくる可能性もある。――と、なると、私はそこには共感できかねるようになる。

わかりやすく言ってしまえば。
それは即ち、たとえ「嫌いな奴」のためだとしても、人は腹の底から、「本気の力」を出し続けられるものだろうか?ということでもある。――そんな器用なこと、私にはできないが!ということでもある。
(「私はできる」という人もいるかもしれないけど、それは「機械的・条件反射的な本気」であり、「正真正銘の一人の人間としての本気」とは、少し違うと私は思っている。)

たとえば。
「弱者は切り捨ててしまえ」「下の立場の者は使い倒せ、吸い上げられるだけ吸い上げてしまえ」みたいな考え方の人間の「ために」、私は力を出したくも貸したくもない。動きたくない。
(もし私が仮にその中で「弱者」や「下の立場」ではなかったのだとしても、)そういう考えの人間には、私は従いたくないしついていきたくはない、ということである。

「人のために生きたい」「集団に自分を捧げたい」それは本来素晴らしい信念からスタートしている場合も多いと思うし、私も、それはそれは結構なことですね!とは思っているのだが、そういうことこそ、「いつの間にか強制」されるようなことは本来あってはいけないはずではないのか。――しかし、自分の意思を「とりあえず横に置いて」とか「捨て置いて」とかでそれをやりはじめ、そのまま続けていると、だいたいそのうち、そういうことは気づくと、あるいは気づかぬままに(こっちのほうが多いかな?)、いつの間にか「強制化」されていたりもするものだ。

「すべて」のことが、常に、一つ一つ、「実際に自分の選んだ結果」であること。

それにはやはり「一個人の選択」然り「一個人の意思」が、一つ一つにいちいち肝要であるし、それは面倒な作業だとしても、いちいち一つ一つ自分で確認し続けなくてはならないものなのだと思う。

あるいは、「集団の意思」を一番に尊重し出すと、このように個々で、意思を持った判断および選択というものを、しなくなっていく傾向はあると思う。

さすればそれはそのうち、「個々の人間の思考停止」を招く可能性も高くなるはずである。――つまりそれは「人からいいように操られやすくなる」ということでもまたあるのだが。

これだけ多くのアタマ数の、それも多種多様な「頭脳」が、そこに存在しているというのに、「揃いも揃って思考停止」となってしまったら、それは相当もったいないことではないだろうか。――それこそ、「人間というものの無駄遣い」ではないだろうか。――我々は「システム」でも「ロボット」でも、ましてや「歯車」でもないはずである。(「人間」ではなく、「システム」や「ロボット」や「歯車」に、させたい・なりたいという人がそれなりの数いるのも承知しているけれど。)

それでも人というものは、集団を形成しないと生きていけないという側面もあるだろう。

「個」をこよなく愛するこの私ですら、度々、少々、嫌気がさしながらも、結局この「社会」(これもある種の「集団」であろう)に組み込まれていないと、実際生きてはいけないと感じている。――どんなに「ひとりが好き」とうそぶいてみても、「正真正銘、本当の一人きり」では、やはり生きてなどいけないのである。

そんな「社会」「集団」の中で、個々が、バラけた思い思いの意見を持つということ。――これはとても「面倒くさい」ことではある。
つまりその「面倒」とは、バラバラの意見をそれでもある程度は束ねなければならないその「手間」のことであろう。

しかし、「手間がかかる」ものだとしても、その「手間」を疎かにしないことこそ、やはり肝要なのだ、と、私はこの頃頓に感じている。
面倒くさがって、捨ててしまったり、蔑ろにした結果――「そもそも面倒だろ?勝手に個人個人で考えるなよ、迷惑だろ?」と、ある種の「遠慮」「空気読み」を、人々が互いに促しそれを長らくし続けた結果――どういうことが起こったか。起こっているか。

「魚は頭から腐る」というけれど、――そう、本当に、「頭だけが腐っている」なら、まだよかったのに。

思考の血が巡らなくなった、その身体の隅々まで、今、「壊死」が進んでいるように感じられてならない。

一人一人、今、「あれ?」ともしも気づき始めたのなら、あらためて「考える」をしてみようではないか。
(今現在が「最後のチャンス」という気が、私はしないでもない。)

「集団」とは必ず、一人一人の「個人」から形成されているものだ。――「集団」の手前に、我々「一個人」が必ずいるのだ。

そしてまず「全体としての考えの尊重」の前に、「一個人」として、少なくとも一度は「意志を持って」「考える」をするべきなのだ。