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生まれる前から知っていたのか、生まれてこの世で学んだのか

「哲学の学び直し」をやってみようなんて思い立ち、先日、哲学に詳しい人に「初心者なら、どこらへんからなら、読み易いですかね?」(すぐラクをしようとする私。笑)(でも、哲学の本って、読みにくいのが多いんだもん!!)と、お聞きしたところ。

プラトンの『メノン』が、対話形式で書かれており、とっつきやすいのでは?と教えてもらった。

と、いうわけで、早速amazonの古書を注文をしたものの――届かない!(最近の郵便、時間がかかるようになったなあああ!!笑)

仕方ないので、インターネット上に、「まとまっている記事」を求めてしまう。(違います!届いたらちゃんと読みます!!笑)

たとえば、こちら。

(こうして「まとめ記事」を先に読んでしまうと、その「まとめた方」の解釈で自分も解釈してしまうようになるから、よくないですよね。……でも、ま、そこからまた「自分で考える」をすればね?それこそが大事なわけじゃないですか。)
(以上、ごちゃごちゃと「言い訳」でした。笑)


これを読んでいて気になったこと。

――ほほう、プラトンは「想起説」の人なのかあ、と。

「想起説」とは。

人間の学習がすでに知っていることを思い出す(すなわち想起する)ことにほかならないとする考え

上記記事から引用

それに相対するのが「経験論」

人間の心はまず白紙の状態(タブラ・ラサ)であり、そこに感覚したことがもたらされることで(つまり経験を介することで)人間はさまざまな観念を形作っていく

こちらも上記記事から引用


「観念」について、生まれもっての状態は、完全な「白紙」なのか、それとも元から何か書き込まれているものがあるのか。

――どっちなんだろう?!?!

よく話題に上がる「問い」として、「性善説」(孟子とかによる)や「性悪説」(荀子とかによる)というものがありますが。

ここからは、現段階での個人的意見。――たとえばこの「性善説」「性悪説」で、「想起説」と「経験論」を検証してみようかと。


まず。
私は、「性悪説」はあまり採用したくないかなあ。

――これはほんの一例だけ挙げて考えてみるのだけど。
食料が不足している地域に生まれて。
で、自分が人間ではなくそれ以外の「獣」だったら、「弱者の食料を暴力で奪ってでも自分の食料に」ってしうるかなあ、とは思うけど。
でも、人間はどうなんだろう??――「本能的に」同種族間で、暴力的なやり方で、奪い合ったりするものかなあ?
「他者から暴力で奪ってしまえばいいんだよ」という「悪い知恵」は、生まれた後で、「誰かにそうされた」あるいは「誰かがそうするのを見た」ことで、芽生えるもののような気がしてしまう。――つまり、何からも教わらずとも、そういうことを、人間はし得るものかなあ?
――無論、「(最低限)生きよう」とはするだろうけど。(「生物」として、そこまではするでしょう。)
でも、「それ以上」を、生まれた時から(その状態のままだったら)人間は求めるものかなあ??
(まあ、別の種の生物の命は、平気で奪ってしまうけれどもねえ、人間はねえ。)(でも、どんな飢餓状態でも、「共喰い」とか、事実上それと同じになることは、「初期状態」ではしないんじゃないかなあ??)(――と、「信じたい」自分がいます。笑)


さて、では逆に「性善説」はどうだろう??

これも極端な想定から考えるけど、生まれてそのまま、他者から何も影響を受けていない、つまり、「悪いこともされないが、善いことも特に教わらない」人間が、はたして「善い行い」をするようになるものだろうか?
「人に対して親切に」とか、「自分以外の生物や物に愛を持って」とか、そういう気持ちって、芽生えてくるものだろうか?
――うーん、これは「芽生えてくる」に賭けたい気がするなあ。(「賭け事」にするなよ!笑)

まあ、「話せるようになる」とか「善い行いが行動としてできるようになる」までは、やはり「人を見て」学ばないと身につかない気がするけれど。

でも、単なる「慈愛の精神」とかは、人間である以前に、「生物として」あるような気がするんだよなあ。

だって、元から、生物として生まれた以上、「何かと繋がっていないと、生命を維持できない」仕組みなわけだから、――赤ん坊なら「他者である人間」がどうしても必要なわけだし、それ以外にも、水も空気も他の動植物からの栄養も必要なわけだし、つまり「この世と一体」になっていないと、「この世での生命」は保てないわけで。
――何かそういうものは、「慈しみの心」とかとも、繋がって、つまり「本能的に持っている」ものなんじゃないかなあ??

そういえば、こんな記事もあった。

人形を使った道徳劇を赤ちゃん相手に見せ、その反応を観察した。他人が坂を上るのを手助けするような善人役の人形と、逆に坂から突き落とすような悪人役の人形とを対照させて上演。赤ちゃんの表情や行動を見て取ることで、どのような道徳判断を下しているのか分析した。

結果として判明したのは、生後3カ月の赤ちゃんですら、善人役の人形を好むということだ。

CNNの記事-米エール大学 ポール・ブルーム教授による乳幼児の研究結果から


で、生きていると、そのうちに、いろいろ「学習」してしまい、――「性善」として予め持っていたものも、その「学習」の「一部」によって塗り替えられて、所々「悪くなる」というね。(心当たりが……。笑)


まとめると。

「経験論」で学んでいく部分は、存在すると思う。
――例えば、人が持つべき「徳」というものについて、「忘れているけど、生まれた時点で『全てを知っている』」というわけではないと思う。
(人間と言う生物が、そこまで高尚だとは、どうも私には思えん!笑)

でも、「人の徳」について、「生まれた時から知っていて、でも忘れていたことを、思い出していく」ということ、つまり「想起説」は、基本の基本、土台部分では、あるのではないかなあ?と、「最近の」私は思ったりもする。(たぶん、昔は違う意見だったと思う。)

例えば、いつからか「本来要らない欲」にがんじがらめになって、「要らない煩悩」に悩まされたりしていたけど、少しずつ、考えに考えてみると、「あ、自分、要らんことをここまでで身につけてしまってきただけなのかもな?」なんてことを思う今日この頃なのである。
つまり、「学習しなくていいことまで学習してしまう」のが、人というものなのだと思う。
でも、その「要らん部分」を取り外していくことによって、「本来持っていたもの」を、思い出していくということは、あるんじゃないかなあ、と。
――改めて冷静になってみると、「この悩み、いるのかな?」とか。
――「求めているこれは、ここまで悩み苦しんでまで、本当に欲すべきものなのかな?」とか。
整理さえしていけば、(「新たに初めて知る」というよりも、)自ずと「元の部分」が、「想起」されてくる気もする。(※個人の実感です。笑)


という、現段階での「個人的意見」をこれまた「全開」で、述べてみました!(笑)

――この後、ちゃんと『メノン』読みますから!
(たぶん、この記事の内容は、プラトンとは全然関係ないし、相当かけ離れています!笑)

「こんなの哲学になってない!」という御意見、ごもっともです!

――これはそうです、「創作料理」ならぬ、「創作哲学」だと思っていただければ!(笑)