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「大丈夫」の効用

一昨日のこちらの話の、後日談とも言えるかもしれない。


私はそもそも、自分の「心配事」などを、他人様に話すのが、少々苦手だ。

――しかし、そういうことって、「ただ話すだけ」でも、ちょっと心が軽くなったりするものだよな、ということには、反面、前々から気づいてもいた。
(それでも、何となくそういう自分の話題は、いまだに話すのを躊躇してしまいがちなのだが。)

それは別に「相談」でなくていいのだ。
――したがって、そこに「回答」も「解決」も、なくてもいい。

つまり。
「他人様に話してどうなるものでもない」のだとしても。

それでも、「胸の内を吐露する」みたいなことは、もしできるものなら、それはやはり、してみたほうがいいのだろうなあ、ということである。



「心配事」とは、外に出さずに自分の胸の中に留めておくと、勝手に膨らんでいく性質があるみたいだ。

「話すだけでもいい」という、このことは、「部屋の空気の入れ替えは、できるならしたほうがいい」というのにも似ているだろう。
――「まず、籠っているこの澱んだ空気だけでも、一度入れ替えてしまったほうがいい」ということである。

その「澱んだ空気」自体――言うなれば、自分の胸に滞るその「気分」自体は、その心配事の種である「事実」とは、また違う、実は「別件」なのである。
(一緒くたにしてしまいがちだけど。)



私は職場のタイムスケジュールの都合等もあって、あまり職場の方々と「個人的雑談」なんぞを、長々とできる機会が、あまりない。

が、その日は珍しく、手だけ動かしていればいい作業をする時間があって。
そしてたまたま、その職場の人と二人だけで作業していたこともあって、「双方の個人的雑談」の流れから、件の心配事について、つい、話してしまったのである。


話を聞いたその職場の人がかけてくれた言葉。

それは、「大丈夫ですよ。」であった。


――正直、その「大丈夫」には、実は何の根拠もない。

そしてそれは多分、その言葉を言ったその人も、わかっていることなのであった。
(また、私自身も、「そんなことはこの人もわかっているけど、それでも、その言葉を言ってくれているのだよな」ということが、わかった。)

でも、その「大丈夫」に、根拠はなかったとしても。
それは「大丈夫であれ」というその人のある種の、「善意」から来る「祈念」なのだとも感じたのだ。


――もし、私が逆の立場だったら、この時、どうしていただろう?

私はこれまで、そういう話を他人様から聞いた時、つい、「そんなわかりもしないのに、簡単に、大丈夫だなんて言ってはいけない」とか、そういうことを、ごちゃごちゃと思ってしまいがちだったし。
あるいは、そういう「根拠なき大丈夫」を嫌がる人も、もしかするといるのかもしれないからなあ、とも思ったりもしていた。

が、しかし。

少なくとも私は、その時のその「大丈夫ですよ」は、とってもうれしかったのだ。

そして本人に「話を聞いてくれてありがとう。ちょっと心が軽くなりました。」と御礼を言った。

――そう、その「やりとり」、「気持ちが流れて動き出すこと」、それだけでいいのだ。

「懸念事項」だろうとなんだろうと、「立ち止まって、独りの胸の内で、ただただ考える」ばかりでは、本来の「流れている」(すべての物事は動き流れ続けているのだから)状態からは、かけ離れて、いずれ「不自然」にもなりがちだ。

とるに足りない言葉だっていい。
そこからでもいいのだ。

とにかく「とどまらない」。
――「動かす」そして「流れるようにする」のだ。
できればそれも、自分が望んでいる「いい方向へ」と向いて、話したり、流したりする。


「いい方向へと、体勢を整えて向かせる」という、まずそのためにも。
これからは、誰かから心配事を打ち明けられた時、四の五の考えずに、祈りを込めて、「大丈夫だ」という言葉を、迷わず送ろう、と、思ったのである。

「気休めはよしてくれ!」「わかったふうなことを言わないで欲しい」と、場合によっては、相手に思われるかもしれない。

でも、口先だけではない限り、そこに純粋な善意がある限りは、私は「大丈夫であれ」という願いを、ちゃんと言葉にして送る意味はあると思うし。

その「効用」は、(たとえその時すぐには見当たらなくとも、)どこかしらに、(いずれは必ず、)いい作用をもたらす気がしている。