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「自分に酔う」

「自分に酔う」というと、どちらかというと悪いイメージでとらえられることも多い言葉かと思うが、それで誰かを傷つけているわけでもないなら、そんな時が人にはあったっていいだろう、と、私は思う。

「自分に酔う」視点がそこに微塵もなければ、例えば、恋愛ソングなんか書けないのではないだろうか。

「自分に酔う」が、日々の中における「心の潤滑油」になっていることだって多い気がするから、私はこのすべてを否定的に考える気には到底なれない。(だって、自分も「自分に酔いながら」カラオケでこういう歌を半泣きで歌ったりしていましたもんねえ。笑)



但し、である。

「正義」を語る時や、誰かを「批判」する時、これをやってはいけない。(ついうっかりやちがちなことだとは思うけれど。)

「自分に酔うことで出るアドレナリンみたいなもの」ってある気がするのだが、――この場合でなら「気持ちよくなることで更に闘争する気力を掻き立てよう」みたいなこと、となるだろうか?――何だかそうなってくると、「その人が気持ち良くなるための正義とか批判」という、本末転倒になりかねない気もするからである。

正義は大切なものであるのは言うまでもないが、やはりそれを「振りかざす」となってはいけないのだと思う。
(言葉って便利ですね、ちゃんとしっくりくる言葉が先に存在していることが多い。つまり、「そういうこと」って、これまでにもよく見られてきた光景なのでしょうね。)
「正義」は無論「正しい」わけだから、わりとそれはそれで、刺せば必ず問答無用で突き抜けるような「鋭利な刃物」に、使いようによってはなってしまうこともある。――で、「間違った人」は、「正しく」「正義という名のもとに」、それで「メッタ刺し」されてしまったりもする。(まあ、昨今の政治家とかは、「メッタ刺しされても血の一滴も出ない」みたいな分厚い皮で覆われている方も多いですけどね、ホントにね。笑)

でも、よく考えてみなければならないと思う。
「正義」は「正すため」にあるし、「批判」は「問題点を指摘する」ためにあるし、即ち元々「誰かを攻撃して倒す」ためにあるものではないのである。(結果として「攻撃されて倒れた」になることはあり得るけれど、元々の「目的」はそこにあるわけではない。)


――とはいえ。
まあ、世の中には「巨悪」みたいなものは実際に存在しているから、(と、私は思うのだが。それも、遠い異国とかだけではなく、生活と直結したところに、ちゃんと見ればまあまあ判りやすく。)そこを「正す」、それに対し「問題点を指摘する」をしようとする時、どうしても「攻撃」要素を持たざるを得ない、というのは、わからないでもない。――「攻撃」くらいの「勢い」をつけないと、とてもじゃないが、「それらへの批判を公の場で言葉にすること」自体ができないというところもあるから、である。

しかし、それでも。
私は、「攻撃」「凶器」になり得てしまうものを、やむを得ず「振りかざす」時は尚更、「正気」でなければ絶対だめだと思うのだ。――つまり、(「うっかりやりがち」だとしても、)「自分に酔う」みたいなことは、徹底的に自制しなければならない、と。



以下、あくまで「ただの例え話」として聞いていただければと思う。

先述したような「巨悪に立ち向かう」タイプの、とある新聞記者さんがいたのである。

私は、その方を、以前は割と応援していた。「すごいなあ」と思っていたし、「こういう人こそが記者だよ!」なんて思っていた。

しかし、ある事件に基づいた話を、映画か何かにしようというような話が出た時、――まあ、そこには「被害者遺族」とも言える方が存在したのであるが――どうもその記者の方の行動が、その「被害者遺族」の方の気持ちに、とてもじゃないが寄り添っているようには私には見えなかったのである。

うむ。

「巨悪を倒す」のは、大切なことである。――たぶん、その話が、有名俳優によって映画化されれば、話題にもなるし、「巨悪を倒す」ことの一助になるとは、私も思った。

しかし、「現実に存在している(つまりその話のモデルとして否応なく存在せざるを得なくなる)被害者遺族」の気持ちを蔑ろにしてまで、それはやるべきことなのか?ということなのである。一言で言うと「あれれ?」という感じだったのである。
――現実の話を「あからさまにモデルにしてます」の体で制作するのであば、それは「所詮エンターテイメントだからさ~」では済まないことだ。
(至極余談だが、元々この作品に出演予定だったある俳優は、「被害者遺族の方の了承を得ていないならできない」と、ちゃんと出演を辞退されたそうだ。――私はその方のファンだったので、このエピソード、ちょっとうれしかったっす!笑)
(閑話休題。)

その記者の方が、常日頃「闘う」その理由は、何だったのだろう?――もともとあったであろう「闘う理由」は、どこにいってしまったんだ??ともまた、感じてしまった。

私がその時頭の中に浮かんでしまった言葉が、「本末転倒」そして「自分に酔う」だったのである。

と、このような、誰かを(名を伏せたとしても)若干でも批判するような文章を、例えばこうしてネット上に出している時、自分も「自分に酔う」になってはいないだろうか、と、大いに省みるようにしようと思う。

「批判」なら、「上から」ではなく、あえて意識して必ず「下から」になるように。

「正義」を語る時は、そんな自分に気持ちよくなってしまわないように。「正義というものの気持ち悪さ、気味の悪さ、おかしさ」までもを睨みながら、語るなら語るようにしたいものだと思う。