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「異常者」ではなく「病人」

昨日の記事の書き足しとして。

「いじめ」や「パワハラ」など、人をいたぶるのがやめられないとか。(多分そこにある種の「快感」を感じているんだろうな。)
あるいは、人から盗むに値するようなことをしてでも「私腹を肥やす」ことに執着している人とか。(お金の富にしか、価値を見出せないのだろうな。)

「そういう奴らって、所詮、異常者だからさあ。」
と、断罪論調で、以前、言い放つように書き出してみて、でも違和感を感じ、そこから続かなくて書きやめたことがあったのだが。

昨日の記事に基づいて言えば。
その自分の言い方が既に「同じ穴の狢」になっているのだと思う。
つまり、「既にやられてんだからここで少しでもやり返したれ!」と攻撃態勢口調をとったら、結局私も同じ土俵に乗ったその「異常者」の仲間入りであり、自分で自分を「異常者認定」しているのとそこまで変わらなくなる、というところだろうか。
――私がその時感じて筆を止めた「違和感」は、そういうことだったのかもしれない。


冒頭で挙げたような方々にも、元を辿れば「そうなった原因」が、これまで生きてきたどこかであるはずなのである。(先に言っておくが、「だから同情しましょうね」という話ではない。)

で、「そうなった原因」は、誰かから「感染」した、価値観や習慣や行動原理かもしれないし。(「人は自分のいいように利用すべき」とか、「自分さえよければの思考回路」「他者はできるだけ踏み台にするものだ」とか?)
――少なくとも、「生まれた時から」完全にそういう状態に仕上がって完成している人は、さすがにほとんどいない気がするので。



(わかりやすいものであれば風邪とかインフルエンザとか)概して、いや、必ずと言っていいほど、生きていれば誰もが「病む」ことがあるわけである。

「人に(身体的・精神的)暴力を振るって平気になる」とか、「泥棒みたいな真似しても全く後ろめたくならない」とか、そういうのも、ある種の「病気」の症状なのだろうと私は思うことにした。(とはいえ、同じ病でもこれらは結構、治りにくさで言えば「重篤なほうの病」だとは思うけど。)

そして、一個人がそうならば、その集合体となっている集団、ないしは世界や社会も、「病む」ことは必ずあるし、それならば、社会や世界のその「病理」の部位に、自分が運悪く直面するということだって、そりゃ、あり得る話だよね?別世界に暮らしているわけでもないしね?ともなってくるわけである。


(昨日の記事から同じことを繰り返して申し訳ないが、念のためまた書いておくと、)それを許せとか認めろとかそういうことに寛容になりましょうとか、そういうことを言いたいのでは全くない。

でも、「もうそこにあるもの」について、「あるべきではないのに」と今更言っても嘆いても、(言ってもいいし嘆いてもいいけど、)それ「だけ」では仕方ないのではないか。

あるいは、「なかったことにする」だけで、その「毒」が、「どこにもなかったことになる」わけがないのではないか。

――そこにある「それ」(個人かもしれないし、個人が直面している状況かもしれないし、いや、社会・世の中かもしれないし)は、「そうあるべきではないのに」と感じられる時、既に「病んでいる」状態にあるのだと思う。

そしてそれは「治療(ここでは医者や病院によるものではないので改善と言ったほうがいいのか)を要するのでは?」というサインなのではないだろうか。
――自然治癒する場合もあるだろうが、しかし放置すれば、自然治癒もままならずいずれ、蝕まれ尽くして、極論、「自分のいる世界ごと」(自分がそこに居るままで)自分の居場所ではなくなっていく場合だってあるかもしれない。


そう、「この世界」は、別に「元から自分のためにある場所」ではない。

――「世界を一つ、誰かが予め自分のためにあつらえてくれました」みたいな「おとぎの世界」なわけがない。(事実、世界がおとぎの国なら、あまりにも荒み過ぎているし、無計画に無意味に無闇やたらに既に馬鹿げている。)

「この世界」に居合わせた私達は、「偶々その土の上に根を下ろした雑草」と変わらない。
――いや、まあ「種が土の上に落ちた」までは「天恵」とも解釈できるかもしれないが。
しかし、そこから先、根を張ること、茎をのばすこと、葉を茂らすこと――そして外界から必要な水を得ること、光を得ること、――と、つまり「生きていく」ことは、「自分で何とかする」なのである。「元から与えられて当然」ではない。
そこで「生きる」のは、まず「自分」という「個体」だからだ。

「世界」は「世界自体」を生かしてはくれるし、その上に「私という存在」つまり「自分」を乗せてまではくれる。
――そこまでなら世界はしてくれるが、しかし、そこに乗っかった「自分」を、今度「生かす」のは、やはり「自分」ではないだろうか。
(だって、繰り返すが「この世界は私のためだけにある」わけではないから。)


「自分が生きていける世界」は、(「自分が生きていきたい世界」もまた、)自分で、なんとか、何なら捻り出してでも、「作る」ものなのだと思う。


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(しなくていいよ!笑)