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善人風を「装う」人間は嫌いだ

一見、至極善人風を装っていながら、実はそうではない人と。

基本は悪人なのだけど、断片的にはよいところが見え隠れする人と。

比べると、後者のほうが、善い部分が際立って見えるわけから、考えようによっては、得だよね。でも、それって実際の人間性を測る上ではどんなもんだろうね?

――なんて話題が、時々出ることがあるけれど。


しかし、「私個人としては、」後者のほうがまだ、良い印象だったりする。

――いや、もちろんこれは「善いところが目につくから善い印象に私も感じます」ということではなくて。
言うなればこれは「個人的好みの問題」で、後者のほうがまだマシに感じる、ということなのである。


この頃、気づいたことなんだが。
(つまり、これまでは自分でも自覚がなかったかも?)

自分は、「見せかける」という行為が、――特に「目に見えないことを見せかける」ということが殊更――すご~く嫌いなのだと思う。

このケースで言うなら、善人である「風を装う」という、この行為自体が、生理的に嫌いなのだと思う。


あるいは。
「言っていることと実際やっている行動とがいつもくい違う」というこの時点で、「言葉というものを軽く見ている、扱っている」というこの感じがまた、極めて、腹の底から、嫌いなんだろうなー、とも思う。



(よって、今回の記事はまさに、個人的価値観と趣味の話でしかないけれど。)
「人を騙すのが平気」「噓はつくものだという前提」そして「言葉がどこまでも軽い」――こういうのが、厭で厭でしょうがない。

「そういう類」はなるべく、自分の認識の中に「入り込ませないようにしたい」とは思っているのだけれど。
――とにかくそれらが「目ざわり」だから、であるが。


では。
何故「目ざわり」に感じるのだろう?と、考えるにつけ。

その人の世界と言うのは、基本的に「その人の認識」で、出来上がっているものなのである。
(――というのが、私の「持論」なのだが。)

早い話が、私の認識の視界の中に、「しょーもない」「薄っぺらい」嘘を混ぜ込んで、この世界を(部分的だとしても)「空虚なもの」にしてくれるなよ、と、こういうことなのだろうと思う。


「目に見えないもの」は、どこか「信じるか・信じないか」の世界なのである。

でも、この世界、半分以上は、実は「目に見えないもの」のほうで、出来上がっている気すら、私はしている。

だから、「見えないものを感じる」その感覚の「ノイズ」や「汚れ」「曇り」になるようなものは、本当~に邪魔なんだよなあ、と、私は感じている次第なのである。