見出し画像

「毎日」とは人生の最期に見る「走馬灯」をゆっくり眺めているようなものなのだ

今回の元タイトル。
「『最期』に問うことを基準に生きてみる」。
(こっちのたほうがわかりやすかったかな??)


(以下、本文です。)

「いかに人より多く得をしてきたか」
なんてことを、
死ぬ間際に真っ先に思い返す人って、
あんまりいないと思うんだよなー。

――いや、
何が言いたいのかというと。

人より損した得したなんて、
そこらへんは割と
「人間が人間として生きる」
にあたっては、割と
どーでもいいことじゃねーか、
なんて思うのでありまして。


走馬灯を最期に眺めながら
「ワハハ~、
自分、人よりずいぶん得したなあ」
とか、
「チクショ~、
自分、損してばかりだ」
とかって、
まず思わないと思うんだよなあ。


と、いうか。

今見ている毎日は、
人生の最期に見る
「走馬灯」の、
まあ、
「ゆっくりバージョン」
に当たるわけでなあ。


得はそりゃあ
多少したいけれども、
「人より」の部分はどうでもいい。

あと、
してしまった「損」は
もう仕方ないものだから、
でも、
それを「ただの無駄」には
終わらせないようにしたい。
(「教材」にできればしたいし、
できたならそれでいいんじゃない?)

そんなことを思う。


そうそう。

「ああしておけばよかった!」 と、
死ぬ間際に後悔しないようにするためには
「今、そうしておく」のが
一番間違いないよなー。


そして自分は、
人生の最期に、
何を問うのだろうなあ。

「最期に自然と浮かんできた問い」
こそがきっと、
「どう生きてきたか」
を、
表すような気がするんだよなあ。