見出し画像

noteという「窓のある部屋」

すっかり忘れていたのだが。

幼少期には、自分、「口が達者な子」なんて、よく言われていたのだった。
つまり、「とてもおしゃべりな子供」だったのだ。
(自分でも薄っすらそんな自分だったのを思い出してきた。)

――と、言ったならば、今現在の実生活の場での私を知る人々からは、驚かれるのではないかと思う。(笑)


さて、私が、こうして(ある時点から現在まで続いている)「どちらかというと無口なタイプ」となったのは、いつくらいからだっただろう?

――小学校の高学年? 少なくとも、中学の頃には既に、「あまりしゃべらない人」のほうに分類されるタイプになっていた気がする。


では、何故そうなったのだろう?
と、更に思い返し、理由を分析してみる。

「人見知り」は、物心ついた時には既に始まっていたが、それでも家族や、慣れてきた顔見知りの人、学校のクラスメートとは、打ち解けてペラペラとよく喋っていた気がする。
――しかしそのうち、自分が人に「どう思われているか」「どう見えているか」を、気にし出すようになってきたのだと思う。
その始まりが、小学校の高学年から中学校ということになるだろうか?


冒頭に書いた「口が達者な子」という言われ方にはどこか、「揶揄」や「敬遠」が含まれていた気がする。――「うるさい」とか「こまっしゃくれている」とか「面倒くさい」とか、そういうことを、やんわりと、その言葉に含めていることが、少なくとも時々は、あったと思う。

「自分は、ベラベラピーチクパーチクうるさい印象の人間なのか」と、(一部の人が時々思っているだけだとしても、それでも)それに気づいたあたりから、一気に、意識的に、口数を減らしていった、そんな気がする。


で。

どうしてこんな話で書き始めたかというと。

では、その「おしゃべりな自分」というものは、どこかに消えてしまったのか?と問われれば。

実は消えてはいないのかも?と。
――言葉で口に出来なくなった分、そうか、自分は「書く」「表現する」ということに、その場を求めだしたのかも?と、ふと思い当ったのである。

私はこのnoteという場を、「窓」のように感じている。――それは当初予想していたよりか、ずっと大きく、見晴らしのいい窓であった。


いくつか一人暮らしの部屋を変えてきたが、やはり、住む部屋の「窓」というのは、大事なものである。――「窓」の全くない部屋は、(いまだ経験なしだが、想像するだけでも、)私にとっては、なかなかつらいものがあると思う。


私には、どうしようもなく、「語りたいこと」があるのだと思う。――そうでなければ、こんなに毎日書きはしないだろう。

そして。
「窓」の存在する場所に暮らし、こうして「窓」を開けて、日々蓄積されていく「語りたいこと」を、解き放ち続けているのだ。
もしそれができていなかったら?――「私は一体どうなっていただろう?」くらいには、「窓」の存在と「語りたいことの開放」については、思う。



インターネットのその弊害というものもまたあるのかもしれないが、私にとっては、20代から、自分の世界にインターネットというものが存在し、そこで「書く」ということができていることが、何よりも「自分というものを保つ」その術になっている気すらする。(何てありがたい世界だ!)


特にここ、noteは、読み手の方も、「自分でも書く」という方が多いから、匿名ではあっても、そこにその人は「実在する人」とより感じられるようになっていると思えるし(それくらい「語る言葉」と「その人の実在」は繋がっているものだと思う)、そういった意味で、他のSNSとは違う安心感がどこかこの場にはある。
言うなれば、お顔は出されてなくても、その人のお顔が見える気がする、というか。

そして、そういう場でこそ、自分も「書きたいこと」が書ける気もする。



自分が、幼少の頃のまま「おしゃべりな人」であったなら、「どうしても書きたいこと」なんぞは蓄積せず、結果、こんなには書いて(書き続けて)はいなかったかもしれない。
でもいずれにしても、いま書いているこれらは、やはり、何らかの形で、どなたかに私が、「どうしても伝えたい、表したい」ことなのだと思う。



すっかり子供時代のうちに「口で語る術」を、失った私であるが。
しかし、その代わりのように、「書く」という術を得られて、結果的にはよかったのだろう。
――「話す」ではなく「書く」ではないと、伝えにくいことはあって、今の私にとっては、やはり「書く」で伝える内容のほうが、圧倒的にしっくりくるのである。
(「書く」しか術がないから「伝えたい」ことの質が変わったのか、それとも元々の「伝えたい」ことの変化に合わせて自分の持つ術のほうを変えていったのか、それがどちらなのか、あるいは両方なのかは、自分でもよくわからないが。)

そして、「書いたこと」は、こうしてこのように、自分自身で「残す」ということができる。自分でも「読み返す」ことができる。
(と、いうことは、そこに尚更「責任」も伴うとも思うが、それも自分の「表現の性分」には合っているのだと思う。)

あと、そうそう。
これも、考えてみてふと気づいた、でも大きな要素かもしれない。

おしゃべりの場の場合、「自分が語りたいこと」が即ち、その場にいる聞き手のその人の「聞きたいこと」と、合致している保証はない。
――そうか、もしかすると、大人になる前に、(元来は)「語りたがりのおしゃべり」である自分は、そのことに気づいてしまったのかもしれない。

それで、「喋ること」から、「書くこと」へと、「伝える行為」を移行させたのかもしれない。

自分の「語りたいこと」を、「読みたい」と思った人だけが、読んでくれたらうれしいな。
――「書く文章」は、「話す文章」と比べると概して、この希望が成立しやすいから、やはり私にとっては「書く」のほうがありがたいのだろうと思う。

前にもここで述べたが、「書く」ということをしていると、不思議と言葉のほうが自分の意識に先立ち、「先導」して進ませてくれるのを、時々感じることがある。
――実は自分の無意識下では、一足先に、気づいていたり、結論がまとまっていたり、そういうことがあるのかもしれなくて。
で、「書く」という行為こそがそれらを「導き出す」、そんなこともまたあるのかもしれない、という気が私はしている。


「書く」ということが、この頃、ますます面白い。

「書く」ができるから、それだけでも人間に生まれてきてよかったと思えるくらい。
「書くこと」は私にとって、かけがえいのないものなのである。


この記事が参加している募集

#noteでよかったこと

48,415件

#振り返りnote

85,359件