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「投げやり」にさえならなければすべては
「難」も「不運」も、ちゃんとどこかで役立つ「教材」にはなるのならば、人生にきっと「無駄」はないのだ。
――と、思っておくほうが、やはり得なのだと思う。
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「今がんばっていること」は、最終的に、「特定の結果」には、全く繋がらないかもしれない。
けれど、直接的な「結果」が何も得られなかったとしても。
その「過程」で培った力こそが、自分だけが持つことのできる「オリジナルな力」になるわけだ。
――最後の最後まで自分を助けるものとなるのって、結局はそういう「自分だけの基礎体力」ではないだろうか。
とにかく「腐らない」ことだ。
「投げやり」にさえならなければ、すべてのことは、(それは「予め思い描いていたもの」とは違うものかもしれないけれど、)「何か」には、きっちりと、繋がっていく気が、私はしてきたのである。
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「信じてさえいれば、必ず、その夢は叶う」などというふうに、自分を騙すことは、もはやできなくなった。
(歳ですね。笑)
どう考えても、「この世の全ての人の夢」が叶うようには、この世はできていないのであるからして。
(気づいてしまった。笑)
しかし、「よいこと」は、どこかで、何かしらの次の「よいこと」に、必ず繋がっていく。
――全てのものは、必ず何らかの「流れ」の上にあるので、必然的にそうなるのではないだろうか。
「いずれにしたってどうせ繋がるもの」ならば、「よいこと」を、「よいこと」へと繋いでいくほうがいい、と、私は考え始めた、ということでもある。
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「描く夢」については、必ずしも「それを叶える」とかではなくても、もういいのかもしれない。
――具体的に「どこに辿り着くのか」は、我々は知りようがないわけだから。(神様じゃないわけだし。)
「結果」って、自分が単に「頭の中で設定している」だけのものであって。
仮にその「結果」が一回自分の下に来たとしても、その後も、生きている限り、「流れ」はそのまま、どこまでも止まらないで続いていくわけである。
それならば。
きちんと「漂い」「流れて」(場合によっては「流されて」)」、そしてこの日々をどこかへ「繋いでいく」という意識で、(日々はどこかへ「繋がれていく」という感覚で、)これからは進んでいくのが、自分には合っているのではないか、と、私は思い始めている。
――そうだなあ。
まずはやっぱり、「今という時を、なるべく上機嫌であれ」だな!
(やっぱりこの「基本」に戻ってくるな!)
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人生の終わりについて。
(以下、あくまで「私一個人としては」の話。)
『別に長生きしたいわけでもないし、誰かに看取ってもらいたいわけでもない。
孤独でかまわないし、――せいぜい最期に、静けさと、自分の精神の上だけでもいいから、安らかに終われたら、それであとは何も。』
……と、どこか割り切っているところがあった。
(だって、ここまで自分は、自分の好き勝手にやってきたわけだから。)
にもかかわらず。
たとえば、「今現在」という時の中で、何かしらの大きな躓きがあったりして、気持ちが塞ぎ、「生きていること自体が虚しい」というような気持ちになると。
「ま、なるようになればそれでいい」なんて開き直っていたはずの自分の「最期」についてまで、なんだかその「今現在の虚しい気持ち」につられてしまって、空虚さ一色に浸食されたりもしてしまう。
――「私のここまでの人生、何だったんだろう?」なんて、途端に「全体的に」、思ってしまう。
考えてみると。
「覗き込む(ことしかできない、先回りしてそこに飛び込むことはできない)未来」について。
彼方のその場所を照らす光源は、結局「今現在」のここにしかない。
今の私が、ここから、「まだ未明の世界」(つまりまだ「闇の中」)のそちらに向けて、どうにか照明を当ててみるしかない、ということだ。
(でも、どっちにしたって、ちゃんと目に見えることは稀だと思うけど。――その地点が、遥か彼方で、遠ければ遠い場所ほど、尚更。)
つまり、「暗く照らせば、暗い未来しか見えない」わけだ。
――そんなの、どっちにしたって、「どうなるかなんてわからない」ものなのに、それにもかかわらず、むやみやたらに「暗い未来」を先回りだけして思い描いている、これはそんな状態なわけである。
今の「機嫌」あるいは「精神状態」によって、「見えている未来」も、変わってくる。
たとえば、結局、憂いたところで何も好転しない未来を(それなら憂いていないで、何か考えて動けるだけ動いたほうがまだマシなのに)、わざわざ憂い続けるような気持ちにまでなってきたりもしてしまうのである。
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すべてのものは、「流れてる」「繋がっている」。
ならば、「今」(「時」について、「私が触れることが許されているもの」は、「今」だけだから)、自分なりの「よいもの」を、流して、繋いでいかないといけない。
――とにもかくにも、今をまずは「上機嫌」に引っ張っていく。
「未来」を良くしたいなら、なおさらそうすべきなのである。
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