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怒れる時ほど「怒らず」に?

昔々いた職場での話。

その人は、普段はとっても、
温厚を絵にかいたような人なのであるが、
しかしある時、急に怒りを爆発させてしまったのである。

その怒りの内容はもっともなものであり、
怒られている人々もそれは怒られて仕方がない状況、
……なのであるが、
どうもその後にその当事者であった一部の人々に、
その怒った人は、疎まれるようになってしまったのである。
――まあ、その人に対してそういう態度をするようになったのは
あくまで一部の人に限られてはいたけれど、
でも一部の人々だけだとしても、
そのギクシャクは全体に波及するところもあるものだし、
なので、温厚なその人に対して私は
「損したなあ、もったいないなあ」
と率直にその時感じてしまったのである。
(その怒った人はまったく悪くないと私は思っていたから、
別に「怒るなんてダメだなあ」とは思わなかった。
ただただ「損だ」と思っただけである。)
ここまでせっかく積み上げてきた――多分、その中には
「腹に据えかねるが我慢」とかの積み重ねだってあっただろうに、
その人の好感キャラクターが崩されてしまった、というように、
私は正直感じた、ということである。
(「善人だから舐められた」説もあるとは思うが、
そっちにまで話を広げると、
またもや(笑)、書きたいことが広がって長くなるので、
それはまた別の機会にまとめるとして。)


概して人間、大人になっても大人げないものだから、
上の位置からガミガミ怒鳴られると、
「怒られてごもっとも」だとしても、
自分が悪いと解っていても、
反感を持つものである。

以前の記事でも書いたが、
その点やはり、
感情の中でも「怒り」の扱いだけは、
突出して難しいものだ。
――我慢すると爆発するが、溜め込んだままでも身体に悪い。

正当な怒りならば、伝えたってかまわない、というか、
伝えたほうがいいはずである。
でも、そういう時こそ、
「感情まかせ」にはならないほうがいい。

「感情まかせ」をやってしまうと、
「怒り」の場合はやはり攻撃的にもなるから、
まあ、間違いなく、多かれ少なかれ、人の気分は害してしまうだろう。
(「人の気分を害するのがはじめから目的なので」という方は、
ご勝手にお好きにどうぞ、というところである。
……そこまでは知らんですわ。笑)
そうなると、
肝心な「何故、何を、怒っているのか」という
「怒りの内容」ではなく、
「この人、怒っているよ~」という、
「印象だけ」が伝わってしまうものである。

「怒り」とは、
その内容を「伝えるために」湧く感情であって、
「放出」ましてや「爆発」させるためにあるものではきっとないのだ。
――と、私は個人的に解釈することにしているのである。

理想論を言ってしまえば、
「怒り」こそ、「怒り」に育つ前に、
穏便にその都度伝えて解消したほうがいいし、
「怒り」に育ってしまった場合も、
「怒りに育っちゃった」からといって
その「発育報告」までをする必要はないのである。
つまり、
それまですると、発信している「怒りの内容」が
「ブレる」のである。

とにかく、
「怒りのその『内容』を相手に『理解』してもらわなければ」
と思うなら、
「怒れる時こそ怒らずに」
を心がけたほうがいいのだろう。
(一見難しそうだけど、でも、心がけているうちに、
私はこれがだんだん無理なくできるようになってきました。
……歳とって感情の動き方が鈍くなっただけかもしれないけど。笑)

そして、感情的にならずとも
「私、怒っています」は、
案外、「伝わる相手には」きちんと
伝わるものであったりもすると思う。
それも、怒りであるにも関わらず穏便に。
(伝わらない場合は、感情的になったところで、
やはりその相手には正しくは伝わらない気もする。
そういう「理解下手」「受け取り下手」な人は
概してどこにでもいるものでもある。)