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「こう動こうと思えば動けたのに動かなかった後悔」

未来についての「たら・れば」は、今後は一切ナシだな、と、思っている。
――それこそ「神のみぞ知る」の世界だからだ。

しかし、過去を振り返って、(それを行った結果がどうなったかはわからないにせよ、)「こう動こうと思えば動けたのに」とか、「試そうとすればできたのに」とか、そういった、「実際にそれをしなかった後悔」というのは、今後は少なくしたいな、とも私は考えている。

――それは、自分自身が、「するのか・しないであきためたのか」の、それ「だけ」のことだから、である。
(そこに「神」は介在しないだろう。すべて「自分のこと」だ。)



これまでを振り返ってみるに。

「その後の人生に影響を及ぼす」と言っても言い過ぎではない「致命的なミス」を犯したことが、私にはこれまでに少なくとも三回あった(気がする)。

しかし、そのどれもが、「まあまあ、仕方なかったかな」と思える類いのものである。

そして、その「ミス」がなければ、今私は、ここで、こうして、「毎日、noteに文章を綴る」なんてことを、やっていなかった可能性もまた高い、とも、思う。


「どちらのほうが、幸福だったか」――それについては、私自身、本当にわかり得ない。
そして、そんなことについては、考えるだけ無駄という気もする。

何故なら。

たとえば、「もう片方の人生の私」は、とっくに書くことへの情熱などは冷めて、そこに至福を感じることなどおよそなく、全く別のことに執心しているかもしれないからだ。

つまりは。

「今の自分の人生を、自分の望むように引っ張っていって、結果ここにいる」のは、唯一「現世でのこの私」しかいないのである。



まあ、他の誰も、私みたいな人生を送りたいとは思わないだろうが(笑)、そんなことは、実は、実に、どうでもよくて。

「今現在の私が、どのように人生を、この毎日を、送っていきたいのか。
そういう望みについて、――叶えられるものだけだとしても、それを叶えているのか、叶えようとしているのか。」
ということのみが、実は大切なことなのではないかと思っている。


そう考えてしまえば。

唯一「今」のこの現況しか、実際には存在してしていない、自分には持たされていないことを鑑みたところ。

「現実を幸せに生きる」は、実にシンプルであり、そんなに複雑怪奇で難解なことではないのかもしれないな?なんて思う。



幼年時代のように、「漠然とした未来を、ぼんやーり」と見ていたあの頃は、それはそれで幸せだったと思うのだ。

しかし。

これだけ歳を重ねると、どうしても、「漠然と」「ぼんやーりと」、先を眺めることは、どうもできなくなってもくる。

どうしても、そっちに視線を送る時は、バラ色とか夢色とか(美しかったとしても目を奪われ心を惹かれたとしても、)そういう「よくわからない色」ではなくて、「目の当たりにできる現実色」で、そこから続くこの先の景色が目に映ってしまうものだからである。


要するに、そんなバラも夢も見当たらない「先の眺め」は、若干つまらない気もして。(笑)

だからその分、「今現在」のほうに、より、注力してもいいのかもしれない、と。


「あの時、動こうと思えば、ああ動けたのにな」というのを、だから私は、少しでも、まず「今現在の真っただ中」で、少なくしていきたい、と、考えているのだ。


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