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「客観的視点」を失うと「不機嫌」になるのかも

「何故自分がこんな目にあわねばならないのだ?」

不機嫌の多くは、突き詰めるとこういう気持ちに行きつくのではないだろうか。

さて、ここで、「こんな目」が自分にとって、不当なものなのか否か、あるいは、仕方ないとも思えるものなのか、それともやはり絶対そうとは思えないものなのか、等々を、まず真っ先に考えてみるといいのかもしれない。

で、
考えた上での答えがいずれになったしても。

とりあえず、「不機嫌」になったところで或いはなっているだけでは、結局「どうしようもない」ことがほとんどなのではないだろうか。

不機嫌も、まあ、誰もいない場所で一人きりなっているのなら構わないのだろうが。

「不機嫌」を人の目に晒す、というのは、いろいろな意味で、(少なくとも長い目で見れば、)それによって何かしらのいいことは、あんまりその本人には返って来ないものだ。

場合によっては一時的に「とっても優しいお人好しなどなたか」が、もしかするとそんな「不機嫌な人」に対する「御機嫌取り」をしてくれるやもしれぬ。
が、その「お人好し」だって「お人好し」なだけだから、したくてしてあげているわけでもなかろうし、やはりそれはいずれ「不機嫌な人」に対しての「減点項目」にしかならないはずである。

やはりどう考えても、自分以外の他人の機嫌について、「良いより悪い方がいいよ!」なんて思う人は、ほとんどこの世に存在していないであろう。

ならば、とりあえず、良くできる機嫌は良くしておいたほうが、どう考えても良さそうだし、少なくとも、悪くしておいてそれだけで「根本的解決が向こうからやってきてくれる」なんてこともまずないであろう。(経験則。笑)

さて、再び冒頭の問いに戻ろう。

「何故自分がこんな目にあわねばならないのだ?」
の、「こんな目」について。
こうなってくると早めに、
・割り切って受け容れてしまうのか
・打開を試みるのか
不機嫌になってくるくらいなら、その前にさっさと決めてしまうのがよさそうだ。
(とりあえずだとしても、とりあえずどちらかに一度決めてしまう。)

前者に決めたら、もう不機嫌になっていたっていいことはない。
事情を察せられない人からは「何なの、アイツ?」と眉をひそめられるだけだからだ。

また、後者に決めたなら、これもまた、不機嫌になっている場合ではない。
不機嫌になると、その状態のまま打開策として誰かに何かを伝えようとしても、その言葉の内容より、「機嫌が悪い人」という印象のほうだけが先に、あるいは強く、相手に伝わってしまうことがほとんどだからだ。

『なるほど、「福」とは、人の「上機嫌」を好み、「不機嫌」をもっとも嫌うものなのかもしれないなあ。』

なんて、他人様のものに限らず、自分の上機嫌や不機嫌すらも、俯瞰で見てみると、感じられてくるところもある。


さすれば。
胸の内に不機嫌が発生したら、とりあえず猛ダッシュで「自分の内側」から出て、離れて「客観的に」自分を眺めてみるといいのだろうと思う。
(という、「イメージトレーニング」も、これは兼ねて書いている。――こういうふうにできるといいんだけどなあ!ということである。笑)

この記事の続きでした。