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「明るい方へ」

とにかく楽しめ、と、思う。

「人は楽しむために生まれてきた。」
それでいいではないか、と。


とにかく明るいほうへ。
――この世にいる時間なんて限られているから、自分の全身全霊をかけて(笑)、明るいほうへ。

「そうでないもの」は、 自分の真後ろにあってもわかる事が多い。(ある意味「自分を脅かすもの」だから察知できるのだろう。)
例えば闇のように真っ暗いものは、別に見ようとしなくてもそこにあるとわかる事が多いので、 (もし仮にその時「自分自身が」たとえ真っ暗闇の中にいたとしても、) 自分の目は、意識は、 光の射す方向に絶えず向けるように努めよう。(やはり「出口」はそっちにある。)

手元が暗くちゃ、 何もはかどらない。
他のすべてはそれからの話。
――もう、ぜ~んぶ、「その次」でいいわ。(笑)


「今をまず楽しく!」 と思う。

すべてはそこからでいいし、 すべてはそれからだ。それでいい。

みんなまず自分の本当の「楽しい」を本気で追求すれば、 人の楽しいを皮肉る気持ちもなくなるし、妬む必要もなくなる。

――世の中の一部の人々が時々どこかで隠しあっている「妬みの空気」みたいなのが、 私は嫌いなのだと思う。


てなことを言っていると、「刹那主義」なんて言われてしまいそうだけれども。

せつな‐しゅぎ【刹那主義】
過去や将来のことを考えないで、ただ現在の瞬間を充実させて生きればよいとする考え方。また、一時的な快楽を求めようとする考え方。「刹那主義の若者」

これは辞書からのコピペなんだけど、 本当に本気で心から求める快楽なら、一時的であろうが求めりゃいいじゃん!(笑)

というか、 何て言うんだろう、 辞書までもが、意味の底辺に、こんな感じの「ある種の皮肉」をたたえるという事はだ。
(大袈裟な解釈かもしれないけど、) 今を充実させている(させようとする)人を蔑んだり妬むような風圧を、個人間のみならず、どこか「世間というもの」からも感じるんだよなあ。

そもそも、そんなふうに常々、お互いが顔色窺って牽制して、変なブレーキをかけたり、 小手先の損得勘定(感情)で変な計算したりするから、 一個人の感覚であるはずの「快い」とか「楽しい」とかまでもが、歪んでぼやけてくるんじゃないのかね?
「本当にその人が求める事を、その時に本気でしていた」なら、それを他者がこんなふうに皮肉ること自体、既にいけないと思う。そしてとてもつまらんとも思うわ。


過去を振り返ったり、未来の計画を立てたりは、これからも自分だってするが。
「現在以上に」重きを置いて、過去や未来のこと「そればかり」を考えるのは、 私はあまりしっくりこない。
「今≦過去 」というのはもちろん好まないのだが、「今≦未来」というふうになってしまうのも、 ちょっとなじまないなー、 と、このところの自分は思う。

――そうそう。

「健康」に置き換えると、自分のこの感覚、わかっていただけるかも。

昔いくら健康でも、 今病んでいては仕方ないし、それと同様に、 未来だけ健康!なんて目論んでも、今不健康で、そんなふうになるのかなー?と。

「今日という日を健康に生き切る」
「今日という日をまず明るく楽しくしていく」
そういうことって、「刹那主義」と言われようとどうだろうと、私の中では大切なことなのである。


「できる範囲で」
「その時に」
「したいことをなるべくしたいようにする」
ってのが、いい。

その時できることは、その時にしかできないかもしれないし。
そこにヘンな計算とかもいらん。

――元々大して計算も出来ないくせに、ヘンな計算をヘンなソロバン弾いて やったりしてきたから、 最後の答え合わせで 不正解が多い(多かった)のだと思うわ、自分。(笑)