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あれ?夢はもう叶っている?

私の子供の頃からの夢のうち、最後まで残っていたものの一つが。

「文章を書いて、それを
顔見知りの知り合いだけじゃなくて、
いろんな人に読んでもらいたい。
文章を書くことを生業にできたらうれしいが、
でも、できなくてもいい、
副業的な形でもいいので、何かを書き続けていたい。」

――って、これ、さりげなく、「ほぼ」だけど、
望んでいたことは既に「叶っている」のでは?

noteも最近ではSNS交流の一つみたいに使っているところもあるもので、
あまりそこにこれまで気づけなかったけれど。
そして、まあ、「副業に」もできていないわけですけれど(笑)、
でも副業にすらできていないその分、自由過ぎるくらい自由に、
自分が書きたいことから書きたいように書きたい時に書けているわけだし。
(これが依頼された仕事で書いていたら、こうはいかないですもんね?)

で、それを出したい時に世に出せているなんて
(←割とこれは自分にとって大きい要素)、
で、あるにもかかわらず、
読んでくださる方も、毎回いらっしゃるわけだから。

こーんな、自分の望んだとおり「以上」に、
既になっていることに、
何で今まで気づかなかったの?と。(笑)

そもそも、インターネットの世界に自分が触れたのは、
20代の時が初めてで、(私は今40代後半です)
10代の頃までは、何か書いて誰かに読んでもらおうとなると、
「紙」に「印刷」して、ってするしかなかった。
つまり、
「どなたか~、気が向いた方いらっしゃいましたら、
ためしにちょっとだけでも読んでみていただけませんか?」
っていっても、
このこと自体のハードルが、めちゃくちゃ今より高かったのだ。

10代の頃の自分からすると、
「インターネット上で個人が自由に発信できる」
今のこの世の中は、信じられない、夢のような世の中なわけです。

で、
「文章を書くことだけで生計を立てて、
それだけに24時間集中させてもらえたなら、
もっともっとたくさん、内容も良いものが書けるのに」
と、20代以降に願っていた時期もありましたが。

何かの手違いで(笑)偶々そうなれていたとしても、
それが「当たり前」の感覚になっていたら、
自分は
「言葉というものを与えられ、
書かせてもらえること自体がこんなにありがたい」
という、このスタート地点の気持ちを忘れていただろうなあ、
と、そんな気がする。
中途半端に、職業にしてしまえていたなら、
そのことを、ふっと我に返って思い出すことも、
ないまま書いていた可能性はあるなあ、と。
(下手すれば「私が書いてあげている」みたいな気持ちになってね。笑)

自分にとって、そうなることは
「何よりも残念なこと」だっただろう、と思う。

「言葉」とか「書く」って、
人間だけに与えてもらった、
ある種の「賜りもの」であるわけですよね。

言葉自体が、これまでどんなに自分を助けてくれてきたか。
人からの言葉によって、これまでどれだけ救われてきたか。

当たり前になり過ぎると、
つい粗雑に扱ったりもしてしまうけど、
こんなにもありがたいものは、
大切に扱わないといけないのだよなあ。
(と、自戒。そして自省。笑)

知らないうちに叶っている夢は、
他にもある気がする。

例えば、
すべて自分で選んで決め、
すべて自分で責任を持つ、ということ。
どこに住むか、時間をどう使うか、何を生業にするか、
どうお金を使うか、何を持つか持たないか、
何を身に着けるか、何を食べるか、等々。

たぶん、これも自分が最も望んでいたことの一つなんだろうなあ、と思う。

あれもこれも欲しい、というのは、
歳をとって自分のキャパシティーというものが見えてくると、
(経済的限界、とか、それにともない住める場所の広さ、とか?笑)
そういう思いも募らなくなってきた、というところもあって、
「特にこれ以上モノはいらない、むしろ増やしたくない」
という目線で自分の住まいを見渡してみると、
まあ、一人住まいの自分の部屋の中にある、ありとあらゆるもの、
気づけばほぼ全てが「自分で選んだもの」で、
それも「溢れ返っている」わけなのである。
(「自分で選んだものしかない」というこれはある意味「寂しいこと」なのかもしれませんが。笑)
(でも、これが「寂しいこと」だとするならば、多分自分は「この寂しさ」すら望んでいたんだろうなあ、と思うのである。自分の性格からして。)

「気づけばさりげなく叶っていた望み」

これは改めて、
「叶っているじゃん!叶えているじゃん、自分!」
と、気づき直したほうがいいものだと思う。

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