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「批判」を「自己顕示欲」の道具にしたくない

というか、これから書くのは、「自己顕示欲」の、その匂いをさせては残念なことになる、という話なのだと思う。


至極端的にその理由を言えば。

「批判」はあくまで「批判」であり、そこに「我、ここにあり」みたいな空気を混ぜ込むと、途端にそれは、純然たる「批判」ではなくなって、その人を飾るための「装飾品」に、どこか変化してしまうからだ。
(多数且つ広範囲の人の支持や耳目を集められるような、元々がそんな好感度の高い「装飾」――たとえば誰もが知るくらいの相当の有名人とか――ならば、それは有効に働くけど。
しかし、そうなっていない場合が多いと、私は思う。)


いや、誰にだって、「私を見て欲しい・評価して欲しい」という欲はあって当然だ。
(私にだって、それはどこかに常にあると思う。)

しかし、それと同時に、他者はその欲の匂いを案外、嫌うことも多いものなのだ。
(それにいつしか気づいてきたので、私は、「批判」に限らず、日常生活の中でも、「自己顕示欲」の「モロ出し」は、しないようにしている。)(……つもりであるが――もし、どこかに出てたらゴメンナサイ。笑)


いつも例えで政治の話題をとりあげて申し訳ないのだが。
(――でも政治は本来、誰もの生活にも関わってくる、誰にとっても共通の問題事項でもあるはずなので、ついつい、ね!笑)

例えば、今の政治について、どこまで腐敗して堕落しているんだろう、大丈夫なの?(大丈夫なわけねーし!)と、少なくともここ5年以上は、私は感じているのだが。

それにしてもこれ、そんな政治の問題点に対して、無関心な人はどこまでも無関心なのは、やはり何か「嫌われる匂い」が、その「政治を批判する側の姿勢」に、もしかすると漂っているからなのではないか、なんてことも、私は思うのだ。


――誤解のないように言っておけば。
「今の政治を批判する気持ちを持つ」側の、私は人間だと思う。
だからある意味「同類」の部分もあり得るのだが。

とはいえ、私は元々、政治に対して、特に強い信条であるとか、ある方向性であるとかは、「意識的に」持ち合わせないようにしている側面もある。

それは、そういう思想や信条で、「徒党を組む」そして「敵と味方に分ける」のも、そんなふうに人々の「考え」を「チーム分けする」こと自体も、自分の胸の中の考えなのにいちいち他者から(それも相当大雑把に)「勝手に分類される」のも、何となく、元から好きではないからだ。

言うなれば、私自身は、偶々「そっち」に向いたり、またある部分では時に「あっち」に向くこともあり、といった、その程度の人間なのだと思う。

しかしここのところ、そんな「信条」だの「方向性」だののことを置いておいても、つまり誰にとっても、「放置しては明らかにマズいのに放置されていること」とか「裁かれるべき人間」とか、そういうものが、余りにも多くゴロゴロ転がっていて足の踏み場もない、そんな政治界隈なので。

――本来なら、国民誰もが、強く関心を持ちそうな話題ばかりだとも思うのだが?
――うーん??何故、大多数がこんなに無関心なのだろう。
――いや、生活に直結する部分も大いにあるのだから、もっと声高に騒いでも、よさそうなものなのだが?――そんなにややこしかったり難しかったりする話題ばかりでもないだろうに??


つまり、私程度の、「元々そこまで強い関心を持たなかった層」「比較的、ま、どーでも?と思いがちだった層」でも、今の政治の在り方は、批判せざるを得ないところに、どう考えても堕ちていると思うのだが??

(「記事を私が選んだ」というふうにはしたくないので、リンクなどはあえて貼ったりしないが、「伊藤詩織さん事件」や、「赤木俊夫さん 自殺」で、例えば検索してみて欲しい。――これらの事件の概要を知ってもまだ、今の政治を支持できるだろうか。)
(私は、一人の人間として、この「政治家たちの仕業」については、気分が悪いことこの上ない。一言で言えば、胸糞悪くて反吐が出る。)

で、話を戻すのだが。

私自身は、上記で述べたようなスタンスで今政治を見ている人間なので、やはり、SNSなどを読むときも、どうしても同意見の方々のものを読むことが多くなる。

で、それの「繰り返し」の中で感じたのが。――そうなのである、「繰り返しているばかり」と、私は感じたのである。

「批判」が、同じところを、グルグルグルグル、回り続けている。
――そして一向に、「内輪」以外では、盛り上がりを見せない。



――この批判は、はたしてこの先、その外側へと、「広がり」を見せてくれることはあるのだろうか?
(どんなにテレビのニュース番組が忖度からの自主的「報道規制」をしていても、インターネットも今はあるわけだから、本来、広がるべきだし、広がっても全然おかしくない内容のはずだと思うのだが??)

――「批判する側」の、その仲間内「だけ」で、盛り上がってしまっていないか?

――その「内側」にいない方々からは、(その方々の日々の生活にも直結するような問題をもそれは孕んでいるはずなのに、)遠ざけられてしまっていないか?

いや、むしろ「冷ややかな目」で、――場合によっては「うるさいなあ」なんて、思われてはいないか?

あえてここでは、至極「意地悪な目線」で、述べようと思うが。

「批判」することで、その批判している方々自身が、どこか「悦に入っている」部分って、ないだろうか?

――言い換えれば、「正義」を、「自分を飾り立てる道具」に、してしまってはいないだろうか?


それらは、無意識のことのほうが多いだろう。
つまり、「無自覚」に、どこかその「道具にしてしまっているもの」で、人との差別化や、マウンティングを図ろうとしている、または「インフルエンサーとしての支持」を維持しようとしている、なんてことはないだろうか。


無論、それらを「いけないことだ」とは、そもそも言えるものではない。

また、「やめたほうがよくないですか?」などと知ったふう解かったふうなことが言えるほど、私はエラくもない。


でも、何の為の「批判」なのだろう?とは思うのだ。

――それは「勝ち負け」では少なくともないと思うし。

ましてや「ズバッと批判できる私ってすごい。」「みんなの意見を代表して、注目を集めている私」みたいな、(薄っすらとしたものも含めて)「マウンティング」(のつもりは御本人たちにはたぶんないのだろうけど)の道具でもそもそもないはずだし。

――つまり「そういう匂い」が、どこかに漂っているなんてこと、ないだろうか??と。

政治でも、いや、個人でも、そこに「批判」をこめる時は、もしかすると、(「個々の人間」であることは引き下げられないけれど、)「私」というもの自体――つまりそこに出てしまう前述の「自我の匂い」というものは、一度「消す」という作業を、してみるのもいいのかもしれない。
(それこそ、それが出来得るのが、こういったSNSの利点である。)


「自己顕示欲」。
――繰り返しになるが、「持っていてはいけないもの」では、けっしてないのである。

が、しかし。
それが邪魔して、つまり、その匂いが他者に厭われて、言葉が届かなくなることは、大いにあり得るともまた同時に思うのである。


「自己顕示欲」を満たせれば、それでいいのか。
そのことのほうが大切なのか。

それとも、
「自分自身の存在」ではなく、「言葉の内容」を、届けたいのか。


「届くべき言葉が届かない」そんな時は。

やはり、入念に、自分がどんな気持ちでその言葉を発しているか。

――例えば、自分と同意見の「味方認定」してしまっている人々の気持ちや、あるいはもしかすると自分自身のそれも含めて、「怒り」の感情を、ムダに煽って盛り上がってしまい、そのせいで「内輪ではない人々」を遠ざけていないか。

自分の胸に手を当てて、「分析」そして「自省」「自己点検」、繰り返してみるのがいいのだろう。



そんなことを、私は思い始めている。