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類は友を呼ぶがその先がない

確かに「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもので。――で、そうなのである、本当に文字通りの「友達の輪を広げましょう」の話ならば、それでまったくもってかまわないと思うのだ。

しかし、例えば政治の世界であるとか、または自分の事に引き寄せて考えれば仕事関連であるとか。
そういう場での「支持」とか「理解」とかの輪を「更に」広げましょう、と意図する時には、「類は友を」方式では、限界があるのではないかと。
(もちろんせっかく既に呼ばれてくれている「友」「仲間」は、真っ先に大事にし思い続けないといけないけれども。)


『エコーチェンバー現象』という言葉がある。
以下に、その意味を抜書きする。

エコーチェンバー現象(エコーチャンバー現象、Echo chamber)とは、自分と同じ意見があらゆる方向から返ってくる「反響室」のような狭いコミュニティで、同じような意見を見聞きし続けることによって、自分の意見が増幅・強化されることを指す。ツイッターなどのSNSや、インターネット掲示板など「同じ趣味・思想の人とつながることができる」場で起こりやすい現象だ。

私がこの言葉を耳にしたのは、小泉今日子氏のインターネットラジオ「ホントのコイズミさん」の中でだった。(#31 翻訳家の岸本佐知子さんゲスト回。)――聞いた時、「それそれ!それです!……ってか、もうちゃんと世間では認識されている現象なのか!」となった。

この頃、日々、自分のツイッターのタイムラインなどを読む中で、この「エコーチェンバー現象」みたいなものに対する「自覚症状」を感じてきているところだったのだ。――いや、これはちょっと俯瞰というか「引きの目」で見ないと、感覚が狂うぞ、と。
自分はもしかすると「本当の世間の空気」からちょっと離れたところを見続けてしまってはいまいか?と、つまりはその時ちょうどドンピシャで感じ中だったというわけだ。

(例えば、今回の衆議院議員選挙とか。SNS上で選挙期間中に見ていた時点では、「これ、今回は投票率がグーンと上がるんじゃないの?」と思っていたのだが、蓋を開けてみたら何のことはない……でしたもんね。笑)

自分と同意見の人の、その意見を「中心に」「より多分に」読み続けている、そんな自分がとらえている世界。――でも、これは「片側の世界」だけを感じているに過ぎないよね?と。

何かを「人々に」(「同意見の仲間内だけに」ではなく)伝えたいと思った時に、「自分とは違う側の世間」も意識的に感覚の中に入れていかないと、そっち側に伝える術を無視しがちになる(ある一部分には著しく伝わっていきにくくなる)のではないか。
それは、言葉を扱う時に、「(自分側だけではない)世間全体」を意識してとらえるようにするなり、もっと伝え方を工夫するなりしないと、言葉の選び方使い方そして発し方を、「残念な感じ」にうっかりしてしまうのではないか、ということも含んでいる。
「既にハッキリ味方の人」の間にしか伝わらなくて、つまり「仲間内だけ、もうそこ限定で盛り上がってま~す」でいいのであれば別にかまわないが、それでは「言葉自体」に広がりは見られないだろう。受けとった後に共感してもらえるもらえない以前に、「仲間内以外の方々」には受け取ってすらもらえず、するとまず良い印象はもちろん悪い印象すらも伝わってはいかないことが目に見えているのはないか、と。


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演説の場で喩えると、解りやすくなるかもしれない。

選挙の候補者の方々が演説をしている場って、知名度が高い人の場合、「黒山の人だかり」が、できはする……のだけど。

でもその、自分と意見が概ね一致している人ばかりの集合体の、味方ばかりの「黒山」を相手にして、声高に自分の主張を叫ぶことによって更にはどこか「悦」にまで入ってしまうと、(「悦に入っている」ように、少なくとも傍から見られそうな人は、演説者の中には多くいるように感じます。)その場には決して現れることのないそれ以上の数の「人だかり」が見えなくなる気がするのである。――その場では目に見えない、つまりその向こうにある「現実」に対する感覚が、鈍ってしまうんじゃないかな、と。
自分の味方ばかりを集めたその場に決して現れることのない「その向こう側の人だかり」とは、すなわちその演説の場ではなく後にどこか別の公の場に届けられてしまう「罵声」の数々だったりもするし、それどころか「うるさい」「聞きたくない」と完全に耳を塞いでいる方々の存在かもまたしれないし。

そしてそれは、SNSの場でだって、同じ現象が起こり得る――いや、実際に今起こっていますよ、という話なのだと思う。

どんなに内容としては「良いこと」を言っていても、「まごころ」こめていたとしても、関心のない人がどこか「耳を塞ぎたくなるような」物言いになっていたとしたら、もうそれは、内容など関係なく、言葉としての体を成していないのと変わりがなくなる。――だって、「耳を塞ぐ人々」には、伝わらない、受けてもらえない言語になっているのだから。それでは、伝達する機能としてのスタート地点にすらその言葉は立てていないことになりはしまいか。
それでは、せっかくその人が「本気で発している言葉」であっても、受け取る側の人によっては「内容の薄いあるいはない言葉以下」の存在にまで実質的になりかねない、ということだ。

総点検したほうがいい気がするんだよなあ、「伝え方」について。
「これから先、本当に届けたいのは誰なのか」と「ではどうすればその人々に言葉が届くのか」と。

自分の身――自分の日常生活に置き換えても。
「うるさい」と感じたら、そりゃあ人は自然と耳をまず塞ぐわけじゃないですか。
「うるさい」印象になるのを避ける、その点にもっと留意する、って、伝えたい言葉を扱う時に、この上なくシンプルな、でも割と大事なポイントだと思うのだがなあ。

なんてことを、「エコーチェンバー効果」という言葉を聞いたところから、私は自省もしておりました、……ってその内容を今回はメモ書きしてみた次第。



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