「静める」そして「美しいものを眺める」
自分なりに何とか、自分の気持ちくらい自分で、「明るく楽しく爽やかに!」なんて心掛けてやっていこうとしているというのに。
外側からいろいろと――そう、次から次へと、「鬱々としたこと」が入ってくるのである。
「仕方ないこと」もあれば。
「仕方なくない!ということ」(つまり「人為的なこと」と言えばいいのか)もあって。
――そっちについては、わざわざこちらも怖い顔を作ってファイティングポーズをとらなくてはならなくなったり。
(だって向こうから手を振り上げられたら、自分や自分の生活を守るために、構えることなくヘラヘラともしていられないじゃないですか、ねえ?笑)
いや~、我ながら「神経太いほう」で、よかったですわ。(笑)
最近のわが身に降りかかることって、ホント、「根っからのお人好し」な方や、繊細な方だったら、「やられてしまう」と思う。
(つまり私はそういうタイプではないので、「やられて」はおりません!笑)
でもねえ。
いくら神経が太かろうと、そこはやはり。
この、鬱々とした気持ちを、どうにか始末したいものよのォ~、となる。
(気持ちを鬱々とさせ続けていると、著しいパフォーマンスの低下がみられ――いや、自分の場合、そうでなくても、つまり普段から、そんなにそこは高くないわけだから、これ以上低くなられると、日常生活や仕事に支障をきたすんですよね。笑)
とはいえ。
こういう時に、「鬱々とした気持ち」の対極にある「楽しい」のほうへ、自ら意識して力で引っ張ろうとしても。
それはただの「綱引き」状態になって、反対方向に引き合う力が拮抗するばかりで、事態はあまり動かないというか、いずれそうしようと頑張る心のほうが、「疲弊する」「無理する」感じにもなってくる。
――うーむ、どうしたものだろう??
考えてみれば。
その要因自体は外部からのものでも。
それを受け取ったところのその後の、自分自身の「気分」というものは、所謂「波」なのだと思う。
つまり、それが「鬱々の波」だとしても、それもまた、やり過ごしさえすれば、つまり、時と共にいずれ必ず、通り過ぎてはくれる、ということである。
「実情」のほうがどうあろうとも(そっちが動かないままだろうとも)、少なくとも気分のほうだけは、(それは「波」なので、)自然の法則のように、自ずと揺り返しの力が働いてくれることが多いように、私には思える。
――そうか、人の「気分」もまた、自然現象の一部なのかもしれない。
一応、我々も、この自然界の「生物」の端くれなのである。
「気分」もまた、我々「人間という生物」に元から自然と備わっているものであれば、それもまた「自然」の一部ともとれるのか、と。
「自然現象と違わない」のならば。
――永遠に変わらない天気も、風向きも、そこにはない。
「長雨」がたとえあっても、「永遠に続く長雨」は、あり得ないのであるからして。
たとえば。
冒頭に述べた、「仕方なくないこと」のなかに、――一例としてだが、人による「汚いこと」などもあって、それはそれは(もしかすると皆様既にご存知の通り)おびただしい数が、この世には蔓延り、溢れ返っていて。
そこを何とか避けよう、かわそうとするけれど、時には、頭から、ドバッシャーン!と、その「汚物」を浴びせられるようなことも、あったりする。
でも、どんなふうに「気持ち」を汚されたとしても、自然に任せさえすれば、やがて「自浄作用」が働き出すものだとも思うのである。
とにかく、まずは「休める」のが肝要だ。
――できるなら、(できるだけでいいので、)まずはじっとしていられたらいいかな、と思う。
それは物理的に、身体を横たえるだけでもいいのだと思う。
そして、それで眠りに落ちるなら、そのまま眠ってしまえるほうが吉だと思う。
(やはり、「眠り」は偉大だ。そこにこそ「動物を司る神」が宿っているといっても過言ではない気がしてくるくらい。)
とにかく、ゆっくりさせよう。
「波」なので、まず、自分の身体の動きを、なるべく「静める」のだ。
痛みなら「鎮まる」ように。
で、その上で。
(「鬱々とした気持ち」の、反対方向へ意図して引こうとしても、うまくはいかないので。)
そういう時は、「美しいもの」を、意識的に求めてみてはどうかと思う。
先程私は、『人による「汚いこと」などもあって、それはそれは、おびただしい数がこの世には蔓延り、溢れ返っていて』と述べたが。
しかし、それを上回る数の「美しいもの」は、まだまだこの世には残されていると思う。
そんな「美しいもの」を、求め、探し、数えていけば。
――それは「見る」のでも「聴く」のでも、「感じる」のでも、何なら「味わう」「嗅ぐ」だっていい。
「この世もまだ捨てたものではないのかも?」と、きっと(少しずつでも)思えてくると思う。
先日の大雪の日は、出勤日であった。
無論、職場の行き帰り(徒歩)は大変ではあったが。
しかし、雪がまだまだ降りしきる、その夜の帰り道、世界は大変美しいことを、私は思い出した。
率直に言って、救われた。
――寒かったし、疲れはしたのだが、「生き返った」気がした。
「この世も、まだまだ、捨てたものじゃないんじゃない?
――こちらから求めさえすれば、心じゅうにすっかり響き渡るような、そんな美しいものは、まだまだ、たくさん、この世にきっと見ることができるはず。」
大雪の中、何故か遠回りまでして帰った私は、まだまだ元気だ、と、思った。
あの夜に撮った写真を、今、見返していて。
「雪にしんしんと包まれる世界」が、あの時、自分を慰め、助けてくれていたことに、私は気づいた次第である。