私は言葉を信じない
タイトルを見て「?!」と思われた方もいるかもしれません。
――ま、でも、もしよかったら、最後までおつきあいいただけたらうれしいです!
読んでいただけたら、私の思っていることが、きっと伝わるのではないかと思うので!
ある作家さんが、こんなことをおっしゃっていた。
私の中でこの「名言」は、読んだ当時から腑に落ちすぎて、その後大ヒットロングランとなって、今でも常に頭の中にある。(笑)
この名言のポイントは、もちろん、「考えていることは、最後はすべて言葉に」ではないところにある。
恐ろしく「口の上手い人」というのに、生きていると、実際、ちょくちょく出くわす。
間接的にも出くわしているし、直接的に実生活の中でも出くわしてきた。
自分は、「心にもないこと」を言うのが、そもそも苦手だし、その上、とても「嫌い」でもある。
――けれど、「心にもないことを言う」ことに、「抵抗がない」言い換えれば「うしろめたさを感じない(感じてもそこまで強くは感じない)」タイプの人もいるのか?――と、いうのを、この十年くらいで、しみじみ感じている。
(間接的にも。そして、直接的、つまり実生活上の場合は、「つくづく思い知らされている」。)
「心にもないことを平気で言える人」言い換えると「その言葉が至極軽い人」は、数としては、そんなに多くはないとは思う。
いや、この国の全体に占める割合としては低い。(これを「国民性」とも言うのでしょうか。)
――そう、だからみんなうっかり「ひっかかる」んだと思う。
「普通なら」そうではないから。
「まさかそんな心にもないことを、口先からペラペラ言うなんて、しないでしょ?」という感覚のほうが、主流だから。
「心にもないことを平気で言える」そういう人というのは、何というか、平たい言葉で言えば「要領が良い」ので、社会的に高い地位や、社会的影響力が強いポジションを、得ていることも割と多いと思う。
(いや、「心にもないことを平気で言う」をしながら、且つ「要領のいい」タイプが、「のさばる」ということなのかもしれないな、これは。笑)
「うまいことを次から次へとペラペラ言える」そんな人ほど、その言葉に行動が伴わない傾向がある、というのは、もしかすると、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。
何故なら、「いちいち、その言葉に、心をこめる『手間』をかける必要がないから」である。
平均的な人は「口先だけで」ということに、良心の呵責を感じるものだ。
――そう、そこには「良心」という「心」が存在しているわけである。
我々は、「人と人とが接する」、というのは、「心と心もまた接する」ということを、どこかでイメージしていると思うのだが。
そこに、「心」のかわりに、「『手触り耳触り』だけ良い言葉」を置いて、代替する人というのが、案外(全体の割合からすると少ないのだが、でも確実に)いるものなのである。
――つまりこれは、「心がない人」とも言えると思う。
もしかすると、「本気で思っている」が、「思っただけ」で「実行した気になる」というタイプもいるかもしれない。
――「言ったら、既にそれだけで、(何故か)やった気にもなれる」というタイプである。
いやいや、今回は、政治の話(だけ)をしたいわけではない。
実生活で出くわす類の直接的な例としては、たとえば、偶々先程見つけたこんな話。
(よろしければリンクの四コマ漫画を読んでみていただければ!)
これは「言うべきことを、意識的に言わないでおいて、別の言葉で紛らわしておく」というパターンで。
これもまた割と「よくあること」だと思う。
――「騙してはいない」「嘘はついていない」と、後ろめたさからはうまーく逃げてかわしながらも、結局そこには事実上の「騙し」「嘘」があるというパターンで。
――でもやっぱり、こういうのに、慣れ過ぎてはいけないと思う。
私は、「そこまでは受け入れなくてはいけない嘘」みたいに扱われがちな、こういうタイプの「騙し」に、慣れてしまいたくはないのである。
(ここで「大人になれ」というのも、ある種の、社会というものが孕む「嘘」「騙し」だと思う。)
という、上に挙げたのは、間接的なほうも直接的なほうも、「あくまでわかりやすい一例」という感じで。
実際はいろいろな「口先」「嘘」「騙し」パターン(なかには複雑に込み入ったものも)が、存在している。
私は常々、「言葉」というものを、心から信頼し、心の拠り所としている、ということを述べてきた。
「だからこそ、」なのである。
今回のタイトルに辿り着くのだ。
「私は、言葉を信じない。」
私は、どうしても、
言葉だけでも、
――というか、
「言葉にだけは」、
裏切られたくないのである。