見出し画像

「怒り」は「火」である。(と、思って取り扱ってみると)

「怒り」に同調してくれるのは、
同じ方向性の「怒り」を
抱えている人だけであり、
それ以外の人は、
内容はどうあれ、
「怒り」をいうものを
忌避するものである。

(そりゃそうだ。)

だからとにかく、
話を少しでも進展させたいと思うなら、
「怒り」は極力
表面上は抑えたほうがいいのだろう。
――つまり、「怒り」とは、
外に向かって、
ホイホイやたらと
投げつけるものではないのである。

そんな「露出した怒り」が
双方の意見を引き出し
整理することに役立つことは、
どうもあまりない気がする。

露にした「怒り」という
その感情の元にはどうも、
「怒り愛好家」、つまり
単なる「喧嘩好き」が集まる気すらする。

――その人々は元々、
人を声高に責め立て、
指をさして論い、
力で捻じ伏せるような、
そんな「言い争い」自体が
好きな気もする。

なので、
「口論」やら「論破」やら
そういう世界が好きならば、
「怒り」は、
大いに出していけばいい。

――しかし、私自身は、
そんな「停滞」に、
限られた人生の時間は
なるべく費やしたくはないのだ。

言葉の上なのだとしても、
力で捻じ伏せたことは
「解決」とはならない。

それでは、
エネルギーをかけたわりに
何も「進展」していない、
ということになる。

――私はそんな
「面倒」と「無駄」は御免だ。

「怒りの感情」そのものを
私は否定しない。
それはそれで
大事な感情だからだ。

しかし。

「怒り」は「火」なのである。

――そうイメージすると、
その「取り扱い方」も
どうすればよいものかが、
見えてきやすい気もする。



そもそも、投げ込んだり
人にぶつけたりするものではないのである。

(そりゃそうだ。
「放火犯」じゃないんだから。)

――「火」(=「怒り」)は、
時に必要な時もあるし、
なくてはならない場面もまたあるのだが、
しかし、
何かに「燃え移る」とか「燃え広がる」とか
そういうことは
避けなければならない
(と、本来は配慮すべきな、)
大変「取り扱い注意」なものでもあるのだ。


また、
いつまでも点火状態にしておくのも
大変危ない。

「いずれは消火する」、
そういうことも
前提としてあるべきものだ。

なかなか消えない
「怒りの火」の場合は、
それを「消すため」に
どうするかを考える。
――そう、
「怒り」が「火」なら、
それを「消す方法」を
常に模索する必要があるのだ。

――「実は消したくないのでは?
つまり、
怒っていること自体が好きなのでは?」
という人も世の中にはいる。
そういう人は
そうしていればいいのかもしれないが、
私自身は、
自分の身の安全を考え、
あまりそういう人には
近づきたいとは思わない。

燃え盛る火を消すためには、
どうすればよいのか。
――特に
自分一人では消せない火の場合、
誰かに消火を
助けてもらうしかあるまい。


それを「伝える」のは、
「感情」そのものではなく
(むしろそれをよけて)、
「言葉」を使うべきである。

そういう時のために
「言葉」はあるのだ。

――それは、
火が付いていることを
知らせるために、
人に向かって
火を投げつけることはない」

ということだ。

例えば、
「火元の事実」を
淡々と言葉として伝えるなど。

「自ら鎮火しよう」としてこそ、
その火を同じく「鎮火しよう」と
思ってくれる人が、
きっとまた集まるのだと思う。