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「信じる」必要がなければ「疑う」必要もないのにな

昨日書いたこちらの記事。

そこにいただいたコメント(改めましてありがとうございます!)に返信していて、気づいたことなのだが。(おかげでまた一記事書けました!!笑)

自分、基本的には大概のことが「ど~でもいい」人間なんです。ホントはね。
何故なら、元から何も「信じ切ったりしない」ので、そうすると「疑う」必要がなくなるんです。(笑)

「信じる」と「疑う」は、正反対に見えながら、実はセットであるし、本来なら「セットづかい」がよろしいシャンプー&リンスのようなものです。

しかし私は、自分の胸に手を当ててよくよく考えてみれば、「疑う」のは本来好きじゃないんです。――あ、それは「人を疑うなんて胸が痛むから」じゃなくて、「ただただめんどくさいから!」です。(――あんまり人と深くそこまでコミットしたくない、精神的ひきこもりなもので。笑)
だから元々あまり人を「信じてもいない」「はじめから信じないようにしている」んだと思います。
――そうなんですよ、だから本来は、多くのことについて「ホントでもウソでもどっちでもいい!」なんです。

しかしです。

「否が応でも関わらなきゃいけない、関わってきてしまう」ものってあります。
社会のシステム、職場(給料もらわないと生活できないので)、等々。
ただの「対、個人」だったら、「やだ、騙してたのね?サヨナラッ!」で済むんだけど(私は人に対してあんまり執着がないみたいです。笑)、
でも、「社会のシステム」とかここら辺は、どうしたって付き合い続けなければならないものじゃないですか?

だから、それらのものに付随する点に関しては、自分はいちいち「疑ってかかる」のだと思います。――で、騙されていたら無論「大激怒」です。(笑)

いやー、思うんですけど、すごくシンプルなわかりやすい例でいけば「年金」とか?
――どんどん減らされていくって、どういうことよ?
今現在も何方式だか知らんけど、「平均賃金下がったらそれに伴い減らしていきます」って、いつの間に何なのそのルール?!
おいおい物価が今上がってんのに早速ナニ施行してくれっちゃってんの?!?!(私はまだ年金もらう側じゃないけど、親は年金世代だし、そして私も今払っている側ではあるからさ!)
それもこっそりと何なの?!(こういうコソコソしている感じがまたすごく腹立つんだけどな~。笑)

って、私は思うんですけど、――みなさんは何もお感じになりませんか?

てか、また別の話になるけど、消費税の元々の使い道って、社会保障費に充てることになってませんでしたっけ??
でも蓋を開けて見たら……。
って、私は「よくも騙してくれやがったな!」って思うんですけど、――ど~も、世間の人々はおおらかで、なんだかまるで「政治の裏切りを許している」みたいに私には見えるのですが、――う~ん??何でなの?!って感じです。

ここのところ、こんなことばっかりで、私は、自分の将来が、はっきりいって、真剣(マジ)に不安になって来ましたけどね。(笑)

(ってこれらは「あくまでわかりやすい一例」ですけどね。)

「厭な世の中ですね」という台詞は昔から出やすいものだけど。
――うん、まあ、世の中、現在に至るまでに、部位によっては「よくなった所」もあるとは思うんだけど。
それにしたって、社会とか、政治とか、そこら辺の「関わらないようにしたって関わってきてしまう」「無関係ではいられない」「抜け出すことはできない」部位について、「嘘つきがデフォルト!ますます信用できなくなってまいりました!」というのは、何だか自分はすごーくイヤなんだけどなあ。――そういう意味で言えば、今、「いつにも増して、すごーく厭な世の中」だと思うけど。

「おいそれと信用するわけにはいかない」=「不安定」「安心できない」となるわけだから。
――個人の胸の中の「不安定」は、いずれそのまま、社会の空気へと伝搬していくものだと私は思うけどな。
ここのところはなんだかんだ言っても、(あくまで)比較的(だけど)(はっきり言えば「酷すぎる国と比較すれば」ですけど、笑)「安心・安全・安定」な社会で特に日本は来たから、多分、それがない「不安定な社会の空気」のほうへ「逆戻り」移行していくことに、あんまり危機感をほとんどの人が抱かないんだろうなあ。

でも「全然気づいていない」というわけでもまたないのになあ。――「そこをなんとか少しでも変えられないものかな」と「思うこと」すら――「探ってみる」「考えてみる」、そして「疑ってみる」ことすら――多くの人々は放棄しているように、私には見えてしまってなあ。

そういう点からもまた、なーんか、「気が重くなる世の中だなあ。」と感じてしまう今日この頃です。

〈追記〉
「否が応でも関わらなきゃいけない、関わってきてしまう」ものの中には、「家族」もあるいは含まれますよね。
そういった意味で自分は、自分の親兄弟については今のところ「信用できる」と思えているので、それはとても幸せなことだと感じています。

しかし、家族について「信用することはできない」になった場合、そこから抜けるなり離れるなりして「一個人としていくらでも生きていける、生き直せる」ようなシステム作りって、大事だと思う。
それで困っている人を救えることこそ「社会」の役割じゃないだろうか。――そういう「一個人」を救えなくて、セーフティーネットになれないで、「社会」って「社会」である意味あるの?とも思う。――「社会」にとって「一個人」は、歯車でしかないわけ?あるいは「吸い上げる対象」でしかないわけ?――「使えない」ときたらポイ捨てするわけ?

――話が広がりすぎちゃうんで、戻して締めますが。
「家族」はまあまあ大事だけど、その手前に、絶対的に「個人」がある。

そこを切り捨てるなよ、無視すんなよ、社会。
と、私は思う。