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作品を「残す」から「流す」時代へと移り変わっていくのかな

紙の本は、もう買わないようにしようかなあ……なんて思い始めている自分。

いや、元々は、「電子書籍」より「紙の本」派だったんですけど。(あるいは今でもそうではあるんだけど。)

結局、「これは必ず再読するだろう」と思いながら、結局そうならない本ってのが、結構ありまして。――というか、正直に言えば、ほとんどの本がそうなってしまっております、ハイ。
(それを再読する以上に、未読のものでどうしても読みたい本が、後から後から次々湧き水のように出てきてしまうんです。笑)


今現在、何故か思い立って、「キッチリ整理されてないものを、とにかく一回収納だけでもして、この住まいの中をスッキリさせよう」なんてことを考えて、少しずつ始めているんですけど。

この「必ず再読はするから、やっぱ買って手元に置いておこう」と思った本の数の、何と多いこと!!
そして、それが一回読まれただけで積み重ねられて、大きく場所をとっていること!!
(で、収納してないと、埃もかぶってしまったりしてね。笑)
(余談ですが、そういう埃が舞う片づけって、どうしても窓を開けてやりたいもので、そうするとこの猛暑日連続期に入ってからは、朝の涼しいうちの時間しかできなくなるので、なかなか捗らないんですよね~。笑)


「本も積もれば山となる。」
とか、くだらない創作諺がアタマの中に発生してしまうくらいに、気づかぬうちに、意外と数多くの本を買っていたりもするんですよねえ。
――うーん、やっぱり、これは電子書籍を積極的に利用すべきかなあ??と。


最近はあまり買わなくなりましたが、CDやレコードも、結局、サブスクリプション聴きだしたら、せっかく所有しているのにあんまり聴かなくなってきてしまった。
――ひゃ~、まさか自分がそっちに傾くとは!
(いや、でも予感はあったかな? これまでだって、音楽視聴時に「i pod」とか便利に使っていたものな。――いや、むしろ、そっちで聴くことのほうが回数としては圧倒的に多かった。)


サブスク。――未聴の作品を、あるいはすごーく久しぶりに聴く(そういえば持ってなかったみたいな)作品を、これだけ気軽に簡単に、発掘して次から次へと聴けるなんて、これはやはり音楽好きにはたまらないシステムでありますな。(新作を制作する側は経済的に大変だとは思いますが。)

かつて(それをやっていたのは結構な昔だけど)、大型CDショップに備え付けの試聴ブースで、いろいろ試し聴きしまくっていた頃もあったけど、――そりゃあ、家にいて、検索しながら次々聴けるほうが落ち着いてラクにでもじっくり聴けるし、楽しい。
(案外、店の試聴ブースに長時間いると悪いような気もしてくるし、それに、立ちながらだから脚も疲れるんだよな。笑)


そういや、SpotifyのTOP50とかもよく聴くんだけど、ひと昔前と違って、納得というか、純粋に「そりゃあ、これは多くの人に聴かれるよなあ」というものが、ちゃんと上位に収まっているように私には感じられるので、意外と長い目で見れば、これはこれで音楽界、よいこともあるのではないかな??なんて思う。

それはこれまでとは違うカタチになるだろうが、――言うなれば「純粋な音楽要素だけ、それメインで」音楽業界がそのうち盛り上がりを見せてくれたりするようになってくる……のではないかな?なったらいいな??という感じ。
(繰り返しますが、それで音楽業界経済がちゃんと回り出すまでは、アーティストさん側は大変だとは思いますです、ハイ。)(でも、音楽業界がいずれ、今以上に活気づけば、そっちのほうがどう考えてもいいのだものね?)

「純粋に音楽的指標だけ」(他の要素ナシ)で音楽を楽しむ層には、それ用の場がちゃんとインターネット上にガッツリあるわけだから、これほどもってこいの時代はないのではないかとも思うし。

本でもCDでも、「そのものが手の中にある」――今どきはそういう「ブツ」のことを「フィジカル」っていうのか?――そのことにこだわりや執着(笑)を見せてきたこの私ですら、こうして何かが変わりつつあるわけだから。

読みものも聴くものも観るものも、もしかすると、これまでのような「一つ一つ残していく」という感覚より、「次々リリースして流していく、流れを作っていく」という方向性に、変わっていくのかもしれないなあ、なんて思う。
――そうなると、「残す」ものも、基本「流れの上に流れながら残る」し、そして逆から見れば、「流していく」ものも、「そういう形で残っていく」とも言える……みたいな感覚というか。

「保存版」「愛蔵版」みたいに、手元に留めるものだけが、「より大切」なのではなくて、「時の流れの中において、いかに流れていくか、流れていける作品に出来るか」みたいなことが、感覚として大事になってくるのかも??
さながらそれは、桜の花のように、花火のように、「いずれ消えるから、散っていくから」その余韻も含めて美しい、つまり「消えていくからこそ」というように、作品の存在感自体も、変わっていきそうに思う。
(――と、私が感じていることが、はたしてこれで伝わっただろうか??
とても漠然とした表現に終始してしまってスミマセン。)


自分のことに引き寄せて考えれば。

自分はこれまで、「杭を打つように、または道標をそこに置くように、しっかり一つ一つ書いて残せたら」みたいな感覚で、ものを書いてきたけれど。
もしかするとここからは、「書いては次々、笹舟のように、言の葉舟を、その時の時流に乗せて外界へ流していく」という感覚で、書いていくようになるのかもしれない。
(どこかに残りはするんだけど、「残すために書く」という感覚が主ではなくなってくる、ということ。)
(つまり「身体」は持たなくていい、「魂」として果てしなく漂っていけ!みたいな感覚で、自分の外側の世界に作品を「放っていく」というか。)


というわけで、「個人的感覚」の「極論」で、また話を締めてしまいました。(笑)